代償の始まり
朝。目が覚めたとき、身体がひどく重かった。
疲れているわけじゃない。熱もない。ただ――自分の輪郭が、少しだけずれている気がした。
制服に袖を通しながら、昨日のことを思い出そうとする。
公園、凛子、歪者。そして、柚月。
言葉は覚えている。感触も、ぬくもりも。
でも、あの瞬間の自分が「誰だったのか」、今はよくわからない。
登校路。いつもの坂道。
凛子が、先に立って待っていた。
「おはよー、澪ちゃん!」
笑顔で手を振るその様子は、何も変わらない――ように見えた。
「昨日の夜、ありがとね」
「……うん」
「変な夢見た気がしてさ、でも澪ちゃんがいて、すっごく安心したんだよね。
……あれ? 夢じゃなかったっけ?」
凛子は小首をかしげて笑った。
「昔から、澪ちゃんには助けられてばっかだね。
ほんと、幼なじみで良かったー」
その言葉に、澪はうまく笑えなかった。
凛子が口にする“幼なじみ”という関係は、たしかに彼女の中に“ある”。
でもそれは、昨夜まで存在していなかったはずの過去だ。
代わりに、昨日まであった“本当の自分”は、
彼女の中から――音もなく、消えていた。
教室。午前の授業のあと、澪は一人、屋上へ向かった。
風が強いが、人はいない。そういう場所が必要だった。
「ようやく、名前を呼んでくれるようになったね」
振り返ると、そこにいたのは柚月だった。
白い制服のような装い。
風も陽射しもまるで届かないような、透ける存在感。
「わたし……力を使ったんだよね」
「うん。あれが、あなたの持つ“零識”の本質」
柚月は、壁にもたれるようにして言った。
「凛子の中の“未処理の痛み”――つまり、歪者を生み出した感情の塊。
それを解放するには、あなたが彼女の記憶の中に入り、“過去”を書き換えるしかなかった」
「でも、書き換えるって……それって……」
「代償として、彼女の中から“本当のあなた”が消える」
柚月は、どこか遠くを見るように語る。
「あなたが代わりに記憶の中に“いたこと”になる。
その結果、あなたは確かにそこに存在していたのに、“いなかったこと”になる」
「……それって、やっぱり……消えるってこと?」
「徐々に、ね。何度も繰り返せば、そのうち“誰の記憶にも存在しないあなた”になる。
でも、それでも――誰かが救われるなら、あなたはきっとまた選ぶ。そうでしょう?」
澪は、否定できなかった。
彼女を見ていて、確かにそう思ったからだ。
そして、自分もまた――それを選んでしまったから。
「柚月さんは……それを、何度もやったの?」
「わたしは一度だけ。でも、それで充分だった。
その人の中の“わたし”は今でも笑ってる。……それでいいと思ってる」
柚月の目に、濁りはなかった。
後悔も、悲しみも、そこにはなかった。
「あなたは、わたしよりもずっとやさしい。
だから、わたしみたいにはならないで。
――せめて、“あなたのまま”でいて」
そう言って、柚月は風の中に滲むように消えていった。
空は、透き通るような青だった。
けれど澪の中には、名前のない空白だけが、静かに広がっていった。