倒れず、溢れず、しかしこぼれる
淡い光に包まれた空間。
その真ん中に、ひとつだけ机が置かれていた。
引き出しのついた、よくある学校の机。
でも、それは澪の知っているものとは、少しだけ違っていた。
誰かがそこに座っていた。
制服を着た少女。
机に肘をついて、ノートを見つめている。
「……希結ちゃん?」
そう呼ぶと、少女が顔を上げた。
けれど、そこにいたのは、今の希結ではなかった。
少しだけ幼く、どこか拙くて、でも真っ直ぐな目をした――
**“澪が知っていた希結”**だった。
「あ……」
少女は何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。
目を細めて澪を見つめる。
その視線には、迷いも拒絶もなかった。
「……まだ、いたんだね」
「……うん。わたし、まだ、いたみたい」
二人の間に、空気が流れる。
誰もいない世界に、風の音だけが微かに通り過ぎた。
「ねえ、澪ちゃん」
「ずっと聞きたかったんだけど……あんた、何が怖かったの?」
突然の問いだった。
でも、それはずっと胸の奥に沈んでいたものだった。
「――ひとりになるのが怖かった」
「でも、誰かに忘れられることの方が、もっと怖かった」
「……だから、どっちも選ばなかった」
希結はしばらく黙っていた。
そして、ノートを閉じて、静かに言った。
「わたしね、澪ちゃんのこと、ずっと覚えてるつもりだったよ。
でも、無理だった。どんなに頑張っても、少しずつ、何かがこぼれていった」
「うん……知ってる。わたしも、わたしのこと忘れそうだったから」
ふたりは、小さく笑った。
あたたかい笑いではなかった。
悲しい笑いでもない。
ただ、誰かと分かち合えたという安心だけがあった。
「でもね――」
「わたし、あんたがこの世界で“何を見てたか”だけは、忘れなかった」
「……え?」
「人の涙とか、怒りとか、醜さとか。そういうのを、あんたはずっと黙って抱えてた。
みんなが見たくないものを、ちゃんと見てた」
希結の声は、強かった。
迷いのない、それでいて優しい声だった。
「わたし、あんたのこと、そういうふうに見てたよ」
澪の目から、するりと涙がこぼれた。
自分が見ていた世界を、
誰かがちゃんと見てくれていた――
それだけで、救われる気がした。
「……ありがとう」
その言葉を口にした瞬間、
澪の輪郭が、ゆっくりとほどけていった。