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わたしをやめる日  作者: Y.N
わたしはわたし
3/32

事件の始まり

 夜になって、雨が降りはじめた。


 細かく、音もなく落ちるような雨だった。

 その音が、窓のガラスに反射して、いつもよりも世界が遠く感じられた。


 


 澪は自室の机に肘をつき、スマートフォンの画面を見つめていた。

 画面には、たった一通のメッセージ。


【澪ちゃん、ちょっとだけ会える?】


 送り主は、青嶺凛子。

 絵文字も、冗談もない。それだけで、胸がざわついた。


 


 指定されたのは、学校裏の小さな公園だった。

 街灯の少ない、夜になると誰も来ない場所。

 傘を差していても濡れるような雨のなか、澪はそこへ向かった。


 


 凛子は、ブランコのそばに立っていた。

 制服のまま、傘もささず、ずぶ濡れで。

 澪に背を向けて、何かを見つめていた。


 


「……凛子?」


 声をかけると、凛子はゆっくり振り向いた。

 その瞳は、どこか焦点が合っていない。


 


「澪ちゃん……わたし、ちょっと変なんだ。

 誰かが、わたしの中をずっと見てるみたいで……」


 


 その瞬間、澪の背筋が粟立った。


 凛子の背後――街灯の死角。

 そこに、“何か”がいた。


 形が定まらず、黒い墨のように揺らいでいる。

 でも、目を凝らすまでもなく、それが“感情”でできていることだけは、直感でわかった。


 


 あれは、“凛子の中から出てきたもの”だ――そう、澪は感じた。


 


 影のようなそれは、凛子に手を伸ばしていた。

 いや、掴もうとしていた。彼女の中にある“何か”を。


 


「下がって!」


 澪は凛子を引き寄せた。

 凛子の体は冷えていて、抱きしめた瞬間、雨とは違う寒さが背筋を這い上がった。


 


「だめ……こわい……澪ちゃん……」


 凛子が泣きそうな声でつぶやいた。

 その声に反応するように、影がこちらを向いた。


 “それ”がこちらに近づいてくる。

 雨音が、遠ざかる。時間が、歪む。


 


 そのとき――視界が白く染まった。


 


 何もない空間。音も、感触も、重さもない。


 そして、そこに彼女はいた。

 白い服の少女。澪に似ていて、けれどどこか違う。


 


「選ぶ?」


 その声は、以前の夢と同じだった。


「このままだと、凛子の中で“痛み”が形になって、彼女を壊してしまう。

 それが、“歪者”。あなたにも、もう見えてるでしょう?」


「……あれ、は……」


「彼女の中に残ったままの痛み。処理されず、出口を失った感情のかたち」


 


 少女――柚月は言った。

 それを止める方法は、ただひとつ。


 


「あなたが彼女の中に入って、“その過去”を引き受けるの。

 あなたが、彼女の記憶のなかの“澪”になれば、あの影は消える。

 でもその代わりに、彼女の中から“本当のあなた”は消える」


 


 理解はできなかった。ただ、心が先に動いた。


 澪は、手を伸ばした。


 


 ――たとえ、わたしが“わたしじゃなく”なったとしても。

 彼女が、泣かずに済むなら。


 


 凛子を抱きしめる。

 その瞬間、あたたかい光が爆ぜた。


 


 影は消えた。

 雨の音が、ふたたび耳に戻ってきた。


 


 凛子は、澪の腕の中で震えていた。

 顔を上げ、少し戸惑ったような目で見つめてきた。


 


「……ごめん、澪ちゃん。こんな時間に呼び出しちゃって。

 でも、いてくれて助かった。

 さすがだね……わたしの、幼なじみ」


 


 澪は、言葉を失った。


 口の中で自分の名前を唱える。

 けれど、それはもう、彼女の中で意味を変えてしまっている。


 


 わたしは、彼女の過去のなかに“いた”ことになった。


 そのぬくもりだけが、まだ澪の手のひらに残っていた。

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