サヨナラなんていらない
朝の教室。
昨日と同じ光が窓から差し込み、机の列が整然と並んでいた。
けれどそこに、“わたし”という名前はもうなかった。
出席簿。
黒板の座席表。
ロッカーの名札。
どこを探しても、“灯凪澪”の名前はなかった。
それを最初に確認したのは澪自身だった。
先生が出席を取る。
「番号三十……は空席か」
そう呟いて通り過ぎる声に、教室の誰も違和感を抱かない。
澪は、そっと椅子に座る。
机の引き出しには教科書もノートも入っていない。
もともと“灯凪澪”という名で貸し出されたものなど、なかったように。
クラスメイトたちは、今日も楽しげに話している。
昨日と変わらない昼休み。
でも、その輪の中に澪の名前は存在していない。
「そういえばさ、席順って、いま何人分だっけ?」
「29人じゃない? あれ、最初からそうだったよね」
「うん、たしか……」
誰も、違和感を抱かない。
誰も、“灯凪澪”という名前を思い出さない。
それなのに。
澪はそこにいた。
今も、息をしていた。
ペンを持ち、ノートに言葉を走らせていた。
たしかに教室の空気を吸っていた。
けれど、この世界はもう、彼女を「いなかったこと」にしていた。
澪は、何も驚かなかった。
この結末が少しずつ始まっていたことを、自分だけが知っていた。
机に落ちる自分の影を見つめながら、
澪は、誰にも届かない声で小さく呟いた。
「……だいじょうぶ。わたしは、ここにいたよ」
その言葉は音にならず、
ただ胸の奥にしまわれていった。