消えていく足音
朝の教室。
窓から差し込む陽射しが、黒板と机の間に柔らかな影を落としている。
ざわめき、笑い声、椅子を引く音。
いつもと同じような光景。
だけど――澪には、それが遠い風景のように思えた。
「澪ちゃん、おはよう!」
神崎蓮が手を振ってやってきた。
その顔は、数日前の彼女とは別人のように晴れていた。
「ほら、見て。忘れないようにって、スケジュール帳持ち歩くことにしたんだ」
笑顔で差し出されたそれには、きれいな字で予定が書き込まれていた。
「ね、今日放課後時間ある? 一緒に図書室、行かない?」
「……うん、いいよ」
澪は微笑みながら答えた。
けれど、蓮の中の“灯凪澪”は、すでに“わたしではない誰か”になっている。
蓮は話しながら席へ戻っていった。
彼女の背中には、もう何の影もなかった。
感情の空白も、記憶の裂け目も、跡形もなく――まるで最初から何もなかったように。
周囲の生徒たちも、自然に蓮に話しかけている。
そこにあるのは、ごく当たり前の“日常”だった。
でも、澪にはわかる。
この日常は、つくられたものだ。
優しさという名前の嘘で、ゆっくりと塗り重ねられていった風景。
――そして、その代償として。
澪自身の姿は、少しずつ、世界から薄れていく。
プリントの配布があった。
名前欄にはすでに“灯凪澪”と印字されていた。
けれど、隣の生徒は小さくつぶやいた。
「あれ、この席……誰だっけ」
一瞬、空気が引き攣れたような気がした。
でもすぐに、冗談のような笑いにかき消された。
「いやいや、澪ちゃんでしょ? またぼーっとして」
「そうそう、猫と一緒に暮らしてそうなタイプ〜」
冗談に、皆が笑う。
澪も、笑った。
でもその笑い声の輪の中に、澪の輪郭だけがなぜか馴染んでいなかった。
教室の隅。
そこに立っていたのは、希結だった。
誰にも気づかれないように、ただじっと澪を見ていた。
その目は、言葉にしないまま、問いかけていた。
――あなたは、どこへ行こうとしているの?
澪は答えなかった。
というより、もう答えられる言葉を持っていなかった。
ただ、自分の足音だけが、教室の床に小さく響いた。
誰にも聞こえないまま、少しずつ、遠ざかっていくように。




