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わたしをやめる日  作者: Y.N
あなたのかわりに
11/32

記憶の中の“澪”


 ――音楽室の午後は、やけに静かだった。


 


 澪は窓辺の椅子に座っていた。

 陽が落ちかけ、ブラインドの隙間から射す光が、譜面台に斜めの線を描いている。


 


 隣では、神崎蓮がピアノの鍵盤を静かに撫でていた。


「ねえ、澪ちゃん。これ……知ってる?」


 蓮がつぶやきながら、ゆっくりと旋律を奏ではじめる。


 それは――どこか懐かしくて、でもどこにも存在しない旋律だった。


 


 澪は微笑む。


「もちろん。……何度も、聞いたよ」


「だよね。わたし、これ弾くと安心するんだ。

 昔、澪ちゃんが一緒にいてくれたときのこと、思い出すから」


 


 澪は、静かに頷く。

 その記憶は、本当は“なかった”ものだ。


 


 けれど今、蓮の中ではそれが“確かにあった”ことになっている。

 手を繋いだ放課後も、二人で笑い合った文化祭の準備も、

 全部――いま、この瞬間から“最初から存在していた”ことになっている。


 


 澪は、その記憶の中を歩く。


 すれ違うクラスメートが、笑顔で「澪ちゃん」と呼びかける。

 廊下の掲示板に貼られた写真。

 そこに並んで映る“蓮と澪”の姿――初めから、ずっと一緒だったかのように。


 


 心が、痛い。

 でも、これが“誰かを救う方法”だと知ってしまったから、否定はできなかった。


 


 蓮が澪の手をとる。


「澪ちゃん、わたしね、今でも覚えてるよ。

 中一のとき、体育館の裏で泣いてたら、

 澪ちゃんが何も言わずに隣に座ってくれたこと」


「……うん。覚えてるよ」


 言葉が、胸に重くのしかかる。


 


 それは、澪の知らない記憶。

 でも、蓮の中では“本当の澪”がそこにいた。


 


 “そこにいたこと”に、されてしまった。


 


 音楽室に光が差し込む。

 ふたりの影が、床に長く伸びる。


 


 偽りの思い出。

 でも、それによって誰かが立ち直れるのなら、

 澪はその“嘘の自分”を差し出すことを、選んだ。


 


 この場所が消えるとき――

 蓮の中には、きっと“灯凪澪”が残るだろう。

 けれどそれは、“このわたし”ではない。


 


 わたしという存在は、

 記憶のすき間にゆっくりと沈んでいく。

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