記憶の中の“澪”
――音楽室の午後は、やけに静かだった。
澪は窓辺の椅子に座っていた。
陽が落ちかけ、ブラインドの隙間から射す光が、譜面台に斜めの線を描いている。
隣では、神崎蓮がピアノの鍵盤を静かに撫でていた。
「ねえ、澪ちゃん。これ……知ってる?」
蓮がつぶやきながら、ゆっくりと旋律を奏ではじめる。
それは――どこか懐かしくて、でもどこにも存在しない旋律だった。
澪は微笑む。
「もちろん。……何度も、聞いたよ」
「だよね。わたし、これ弾くと安心するんだ。
昔、澪ちゃんが一緒にいてくれたときのこと、思い出すから」
澪は、静かに頷く。
その記憶は、本当は“なかった”ものだ。
けれど今、蓮の中ではそれが“確かにあった”ことになっている。
手を繋いだ放課後も、二人で笑い合った文化祭の準備も、
全部――いま、この瞬間から“最初から存在していた”ことになっている。
澪は、その記憶の中を歩く。
すれ違うクラスメートが、笑顔で「澪ちゃん」と呼びかける。
廊下の掲示板に貼られた写真。
そこに並んで映る“蓮と澪”の姿――初めから、ずっと一緒だったかのように。
心が、痛い。
でも、これが“誰かを救う方法”だと知ってしまったから、否定はできなかった。
蓮が澪の手をとる。
「澪ちゃん、わたしね、今でも覚えてるよ。
中一のとき、体育館の裏で泣いてたら、
澪ちゃんが何も言わずに隣に座ってくれたこと」
「……うん。覚えてるよ」
言葉が、胸に重くのしかかる。
それは、澪の知らない記憶。
でも、蓮の中では“本当の澪”がそこにいた。
“そこにいたこと”に、されてしまった。
音楽室に光が差し込む。
ふたりの影が、床に長く伸びる。
偽りの思い出。
でも、それによって誰かが立ち直れるのなら、
澪はその“嘘の自分”を差し出すことを、選んだ。
この場所が消えるとき――
蓮の中には、きっと“灯凪澪”が残るだろう。
けれどそれは、“このわたし”ではない。
わたしという存在は、
記憶のすき間にゆっくりと沈んでいく。




