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03 二人の決断

 窓の外には、深い夜の闇が広がる。

 王宮から戻ったヘレーネは、自室に下がり己の不運を嚙みしめていた。


 フランツ・ヨーゼフ皇帝の見合いで選ばれたのは、付き添いで来ていた妹のエリーザベトだった。

 さらには、タクシス侯爵家との縁談までもが王命によって頓挫した。

 すべてが崩れ去り、ヘレーネの胸には深い絶望が広がっていた。


「どうして……どうしてこんなことに……」


 涙が静かに頬を伝い落ちる。


 アントンは、ヨーロッパ随一の富豪で、結婚相手に困ることがないだろう。

 それに比べて、自分は皇帝に袖にされ、侯爵家との縁談も破談となり、適齢期を逃した公爵令嬢——どこにも嫁ぐことなどできない。

 一生を孤独に過ごすしかないのだ。


 だが、その胸の奥に、別の感情が広がっていた。

 気づかないふりをしていたが、ヘレーネはその感情に目を向けざるを得なくなった。


「……アントン……」


 その名を口にした瞬間、胸が締めつけられるような感覚が彼女を襲う。

 甘やかな微笑み、低く響く声、そして蕩けるように真摯に見つめる視線——それらが次々に脳裡に浮かんできた。


 ヘレーネは、ようやく気づいた。

 お互いの立場や利益のためではなく、彼を一人の男性として愛し始めている自分に。


 その時、廊下の向こうから足音が近づき、控えめなノックの音が扉に響いた。


「公女様、失礼いたします。」


 侍女頭の声には、普段とは違う緊張感が滲んでいる。


「タクシス侯爵家の世子様が、お越しです。いかがなさいますか?」

「アントンが……!?」


 驚きに息を呑んだヘレーネは、戸惑いながらも顔を上げた。


 王命が通達され、きっと彼は別れを告げに来たに違いない——直接、さよならを言うために。

 好きな相手には泣き顔ではなく、最後に笑顔を見せたい。

 そう心に決め、涙を拭ったヘレーネは、アントンを迎えるために客間へと向かった。


 扉を開けると、黒い外套に身を包んだアントンが、静かに立っていた。


「アントン……」


 ヘレーネは小さく彼の名を呼び、別れの言葉を待った。


 アントンはじっと彼女を見つめ、ゆっくりと歩み寄った。

 早馬で駆けつけたのだろう。

 アントンは、夜の冷たい風の匂いを纏っている。


 そして、彼女の頬に残る涙の跡に気づくと、痛ましそうに眉を寄せた。

 彼の手がそっとヘレーネの頬へと伸ばされた。


「泣いていたのか?」


 アントンは、頬を優しく指で辿った。

 その指の温もりに、ヘレーネは思わず動揺した。

 彼の指先が触れたところから、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。


 ヘレーネは言葉に詰まり、ただ小さく首を振った。


 アントンは彼女を見つめ続け、沈黙が続く。

 彼の翠緑の瞳には、隠しきれない緊張が漂う。

 やがて、アントンは意を決したように息を吐き出すと、口を開いた。


「ヘレーネ、王命に背こうとも、君を諦めきれない」


 思いがけない言葉に、ヘレーネは目を瞬かせた。

 アントンは真剣な表情で言葉を継ぐ。


「結婚を強行すれば、家門から追放され、身分を失うだろう。それでも……一緒になってくれないか?」


 ヘレーネはその言葉に息を飲んだ。

 アントンは王命に背き、家門を捨ててでもヘレーネと一緒になろうとしている。

 胸の中に、喜びが広がっていくのを感じた。


「アントン、貴方は追放されて侯世子の地位を失ってもいいのね?」

「そうだ。それでも、ヘレーネと結婚したい」


 アントンはまっすぐ彼女を見つめた。

 ヘレーネはしばらく黙って考え込んだが、ふと笑みを浮かべた。


「わたしたち、追放されたら……コルフ島に行けるわよね? シチリアにも?」


 ヘレーネの声には、予想外の軽やかさが混じっていた。

 アントンは一瞬驚いたが、彼女の意図をすぐに理解し、愛しげに微笑んだ。


「そうだ、どこにだって行ける。ベネチアでも、フィレンツェでも、新大陸にだってさえ、君の行きたい場所ならどこへでも」

「それなら……案外、悪くないかもしれないわ」


 アントンの表情には安堵が滲んでいた。

 近づいてきて、ヘレーネの手を取り、アントンはそっと握りしめた。

 ヘレーネは少し照れくさそうに微笑み、アントンの手をぎゅっと握り返した。


「一緒に、どこへでも行きましょう。アントン、国を追われようとも、あなたとならどこへ行っても大丈夫」


その瞬間、ヘレーネの胸には確信が生まれた。

彼女の人生は、今まさに大きな『分水嶺』に立っている。

この選択が、彼女の未来に計り知れない変化をもたらすのだと、はっきりと感じた。


 抑えきれずにアントンはヘレーネを強く抱きしめた。

 腕の中に包まれたヘレーネは、心が温かく満たされていくのを感じた。

 頬が彼の胸に触れ、鼓動が伝わってくる。


「ヘレーネ……」


 アントンの声は微かに震えていた。

 ヘレーネは彼の背にそっと腕を回す。彼の温もりを感じながら、自分の不安が消えていくのを実感した。


 やがて、アントンはそっと彼女の肩に手を置き、少し体を離して、二人はお互いを見つめ、微笑んだ。

 アントンは彼女の手を取り、その指先に軽く口付けた。


「ヘレーネ……愛しているよ。」


 アントンの囁きに、ヘレーネの目からは再び涙がこぼれたが、それは悲しみの涙ではなかった。


「私も……あなたを愛しています。」


 ヘレーネは涙声で答えた。アントンは彼女を強く抱きしめ、そのまま唇を重ねた。

 二人の間には、もう何の迷いも残っていなかった。

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