ペパーミント
予定よりも長くなってしまいましたが、ようやく第二話です。
ストーリーの流れを気にするあまり、当初、思い浮かべていた
ことからややそれてしまいました。
相変わらず、カラメラの登場シーンは少ないですが……
ペパーミント
どこからこんな多くの人間が集まってくるのだろうか。
時速100kmで二本のレール上を車輪を軋ませ走る電車。
現代における公共の移動手段として、化石燃料を動力とする交通手段に打って変わって開発の進む電車。山間部などの電力が行き届いていない場所ではまだ燃料を使用するタイプの電車も重宝されてはいるが、確実に電気だけで稼動する電車は増えてきている。
特に人口が密集する都会では網の目のように路線網が発達し、建物が入り組んだような狭い地域でさえものの数分で通り過ぎ目的地へと運んでくれる。
それはある意味密室に近い状況を作り出し、すし詰め状態となった車内は身動きどころか呼吸することすら容易ではなくなる。行動範囲が狭まれば狭まるほど、この密室の車内は俺のテリトリーとなる。
人が多ければ多いほど仕事がしやすくなる。まさにこの状況こそ俺の力が最大限に発揮される。
だいたい狙う相手は決まっている。スーツに口の広いバッグを持った奴が大半を占める。
それでも、それはテリトリー内に入った獲物に限定される。動きが制限されるため、むやみやたらにターゲットを漁っていては不審に思われるし、逃走の際に余計な足止めをくらうこととなる。
おっ、テリトリーに獲物が入ってきた。
標的は50代くらいの中年オヤジ。勿論、身形はスーツ。都合のいいことに、近くの女性に嫌らしい目線を向け妄想に耽っているのか、あるいは死角でお触りをしているのか分からないが完全に俺の存在に気付いていない。
今がチャンスだ!
人が密集した隙間を蛇のように腕を縫わせ、中年オヤジへと伸ばす。瞬きにも満たない瞬間に懐へと手を差し入れる。当たりをつけた場所に『お宝』があったことに歓喜し、素早く、盗る!
その速さは肉眼でも目を細めてでも見えることはなく、何十人という人の目のある場所だというに誰も気付かない。
『お宝』の大きさや厚さを吟味し中身を確かめていると、グッドタイミングでプラットホームに滑り込む電車。
あぁ、なんてツイてるんだ。
後はいつもの通り、俺は雑踏の中へと消える。被害者には悪いが、もう俺を捕まえることはできやしない。
とある小さな会社で事務員として働いている茅場桃子。入社してかれこれ4年が経ち、事務員としての仕事も板に付いて立派に職務をこなしている。今日も電話対応や雑務に追われ忙しい日々を送っているが、それを遥かに上るだけの幸せな時を過ごしている。
仕事の電話を終わらせ電話を切ると、そこへタイミングよく隆昌が現れる。大きなガラス窓を軽く叩き、これからメシに行かないかというジェスチャーをする。
一方の桃子は、掛けているメガネを調整しながらにっこり微笑み、『OK』というジェスチャーを返す。
ちょうど昼食の時間帯に二人は近所の定食屋にて食事をすることにした。上手い具合に4人用のテーブル席に着き、二人は向かい合って座る。
「桃子、あのさ、ちょっと早いんだけど、誕生日プレゼント」
桃子の食事が終わるタイミングを見計らい、隆昌は隠していた小箱をテーブルの上に置く。桃子は物珍しいそうにそっと箱を取ると、ゆっくり箱を開ける。
「……綺麗」
細長い箱に入っていたのは紛れもないネックレス。光輝くそれは、どう見ても安値のものとは想像しづらい。
「……あぁっ、ダメダメ。こっ、こんな高いもの受け取れない」
自分の趣向や何より宝石類を身につけたことのない桃子は、煌びやかなネックレスを目の当たりにし拒否反応を示す。
「心配すんなよ、高級な宝石店なんかで買ったもんじゃないって。そこいらでやってる露店で買ったんだよ。懐の寂しい俺が高級品なんて買えるわけないだろ?」
「例えそうだとしても、あなたからプレゼントなんてもらえないよ。だって……」
隆昌には桃子が次に何を言うのか見当がついていた。桃子の方もこれまで何十回と口にしてきただけに、躊躇いが生じる。
「……分かってる。それ以上言わなくても」
「でも……」
分かっている、理解していると散々聞かされ続けていたが、何の進展も見せない事態にいらぬ心配が募る。
「そりゃ、いろいろ当たっているさ。だが、どこも不景気で雇っちゃくれねぇんだよ。増して、俺には前科がある。そんな、世間のはみ出し者を雇おうと考える奴なんていねぇのさ」
「でも……生活するには、お金が……」
「心配すんなって。今までの貯金とバイトでやりくりしてっから」
これ以上いらぬ心配をさせぬよう、隆昌はテーブルの上に置かれ桃子の手にそっと手を乗せる。彼女も、これ以上聞くまいと小さく頷く。
「あっ、あのね、大事な話があるから、今日は寄り道しないで帰るね。隆昌も道草しないでね」
メガネを掛けた奥の瞳を優しく綻ばせ、桃子はお会計伝票と荷物を手にレジへと向かう。
「……俺も、大事な話があんだよな」
桃子が去った後、隆昌は周囲に気付かれないような小声で独りごちするのだった。
隆昌は正直な所、ここ数年、定職に就いていなかった。
今まで何社と面接を受けてきたが、ことごとく全て不採用ばかり。
前科という社会的烙印を押されてしまったばかりに、隆昌の社会復帰はおろか逆に世間から疎外されるほどだった。自分の犯してしまった愚かな罪が己を蝕み、消せない十字架を背負わされているのだった。
昼食代金は勿論桃子が払ってくれた。いつの日か自分の方から進んで払おうと心に決めているものの、慣れてしまった習慣を変えることはできず今日に至っている。
完全なるプー太郎の隆昌は、桃子が帰宅するまでの時間をどうにか潰すため昼下がりの公園へとやってきた。
ベンチに座り、一服しようとケースから直接タバコを出し銜える。常に一緒に持ち歩いているはずのライターが見当たらず、あたふたと身辺を探す。肝心の火がないことに落胆し諦めようとした矢先、目の前に突然現れるオレンジ色の火。一瞬、夢か幻かと戸惑う隆昌だったが、見上げた先にいた人物に心当たりがあった。
「よぉ、隆昌」
「……」
何の反応を示さないまま、隆昌は目の前で揺らめく火にタバコの先端を着火させる。
「何だよ、久々に会ったってのに、無視か?」
火を貸した人物は隆昌に了解を得ないまま隣に腰を下ろす。
「久しぶりっすね、湯端さん」
隆昌は終始平静を装い、タバコを燻らせながら無愛想に努める。
隆昌と顔見知りである湯端勝徳は、何を隠そうベテランの警官であり窃盗やスリなどの事件捜査に長年携わってきた。隆昌も若かりし頃、彼に御厄介となったことがあり、その繋がりが今日まで続いていた。
「最近どうよ?」
「そうっすねぇ、人並みの暮らしをしようと努力してますけど、なかなかうまくいかないもんですね」
落ちそうになる灰を近くの灰皿に擦り落とす隆昌。先端が鉛筆のように鋭くすると再び銜える。
「そういえば、湯端さん、そろそろ定年になるんじゃないですか?」
「まぁな。いつまでも若いと思ってても、年なんかすぐに取っちまうからな。俺が辞めるまでにひよっこのガキどもを育てなきゃなんねぇんだ。おいぼれ刑事の最後の仕事ってところか」
皮肉交じりに呟きつつ、足元を通り過ぎる鳩に目を向ける。
「なぁ、昔の誼で若い連中にスリの実演をしてくれないか? 教材によりよいものをと考えてんだ。卓上の講釈より、生のスリ現場を見せてやりたいんだ。協力してくれねぇか?」
どこまで本気で言っているのだろうと、隆昌には図りきれないものがあった。警察官の前でスリを実戦しろというのは、果たして自分にとって得策なことなのだろうかと首を傾げずにはいられない。
「じょっ、冗談でしょ? 狼の群れに羊を放すんですか?」
「へへっ、冗談に決まってるじゃねぇか。だが、教材は必要なんだ、現実問題な」
意味深なコメントを残しつつ、初老の刑事はどっこいしょっともらしベンチから立ち上がる。
「ふあぁ~あ。隆昌、お前は更生したんだ。昔のお前に戻るんじゃねぇぞ」
最後、警官らしい言葉を投げ掛け、勝徳は隆昌の肩をバシッと一叩きして去っていく。
「相変わらず、力加減の知らねぇオヤジだぜ」
すっかり吸い終えてしまったタバコを灰皿の中に入れ、隆昌は叩かれた肩を違和感はないかと回す。
「……口では簡単に言えっけどさ、中々、人間は変われねぇんだよ」
再び一人となった隆昌は、ようやく見つけたジッポを取り出し語りかけるのだった。
とある飲食店の前にてショーケースの中に入ったサンプルを眺めるカラメラ。和洋折衷な料理に空腹感は更に募り、物欲しそうに目移りしている。
「はぁ~お腹すいたね、スウィート」
大きなショルダーバッグから顔を出す子猫のスウィートに話しかける。
「世の中には、いろんなおいしそうなものがあるんだね」
ガラス越しに店員や客、はたまた行き交う通行人などから、奇妙な風体や行動を不審に思う視線がカラメラに集中する。当の本人は、周囲のことなど気にすることなく立ったりしゃがんだりを繰り返す。
通りを行き交う人混みの中に隆昌もいた。今の生活を変えるため一歩踏み出そうとしているのか、手には無料に配られる求人情報誌が握り締められている。
隆昌の目にも飲食店の店先で覗き込んでいるカラメラの姿が入る。妙な格好をした奴がいるなぁとしか思わず、そのまま素通りしていく。
指を銜え、料理のサンプルを眺めていたカラメラだったが、隆昌が通り過ぎたことを予感したように後ろ姿を目で追っていた。
「……」
時刻は夕刻となり、仕事から帰宅した桃子はすぐに夕食に取り掛かった。
二人の同棲生活はかれこれ2年が経ち、お互いに違和感のあった生活はゆっくりと馴染んでいき、今では一緒にいることがごく自然といった雰囲気になっている。
出来上がった料理を、二人はテレビのあるリビングにて食べる。食事中は常にテレビが点いているため、二人の会話はあまりない。どちらかがテレビに見入っていると、真面目な話どころではなくなってしまう。
「……あのね、大事な話があるの。聞いてくれる?」
隆昌に遅れながら食事を終わらせると、桃子は素早く食器類をまとめキッチンの流しへ持っていく。
「あっ、あぁ、確か、そんなこと言ってたっけか」
テレビに夢中の隆昌は桃子の話を半分以下に聞き、真面目に受けようとする姿勢にならない。
「……真面目に聞いて」
話を聞こうとしない隆昌の姿に、流石の桃子も強硬手段としてテレビのリモコンの電源を消す。
「あっ……分かったよ、話、聞くって」
いきなりの出来事に一瞬ムッとするが、隆昌はようやく話を聞こうと桃子と向き合う。
「あの……私たち、そろそろ結婚しない?」
「……結婚」
そのワードを耳にし、隆昌の表情が真面目なものへと変わる。
「……私たち、付き合って3年になるし、同棲だってしてる。だから、そろそろ入籍したいって思ってるの」
『結婚』
人生において一番に輝く瞬間であり、新たな人生の幕開けを意味している。人として、ひとつの区切りとなるこの瞬間を、軽視する人はいないことだろう。
隆昌もいよいよその時が来たのかと感じるものがあった。しかし、過去の出来事から、桃子に依存している様。そして、何よりも、桃子に隠していることが心を苦しめ素直な想いを妨げていた。
「……そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、結婚とか、入籍とか、まだ先でいいんじゃないか?」
「隆昌が定職に就いていないって事も知ってる。だけど、入籍したっていう事実があれば、世間の見方は変わると思うの」
確かに桃子の言う通り、入籍し、隆昌に守るべき家庭があると分かれば、今まで苦労していた就職活動がやや柔軟になり、企業側も違う印象を持つかもしれない。だが、それだけでは丸く収まるほど簡単なものではない。
「……そうかもしれない。そうかもしれないが、そうしても解決しないことだってあるんだ」
「……解決できないことって何?」
つい口をついて出てしまった言葉に、桃子はすかさず言及してくる。
「そっ、それは……」
「……ねぇ、話してよ。何もかも、私に教えてよ。隆昌の全てを知りたいの!」
メガネの奥の瞳に涙を湛え、桃子は隆昌に縋りつく。一緒に同じときを過ごしても、一向に縮まらない二人の距離。何か隠し事をし、間に隔たりを作ることに桃子はもう我慢できなかった。
「……タバコを切らしたの忘れてた。買ってくる」
この場の空気を嫌い、隆昌は桃子と視線を合わせることなく部屋を出て行った。
「……どうして心を閉ざしてしまうの。隆昌の心に触れたいよ……」
遠くでドアが閉まる音を聞き、桃子はテーブルに突っ伏し泣き崩れるのだった。
夜の街に飛び出した隆昌。
アパート近くの自販機を通り過ぎ、近所にあるコンビニへと足は向かっていた。
アパートを飛び出したというのに、すんなり用事を済ませてしまうのは何かばつが悪く、隆昌は少しでも遠出したいと目的地を定めていた。
勢いで飛び出したため、肌寒さを感じる。まだまだ冬は遠いとはいえ、夜にもなると寒さが素肌に浸透してくる。サブッと漏らしながら隆昌はジーンズのポケットに手を突っ込み夜道を歩いていた。
街灯が一定の間隔で設置される通りを歩く隆昌。薄暗い通りを歩いていると、急に黒い塊とすれ違う。街灯の下を通り過ぎ隆昌とすれ違うと、それはどこかの民族衣装を思わせる肌の露出の少ない出で立ちをしていた。
一瞬気を取られ反射的に目で追う隆昌だったが、関わり合いになるのを嫌いそのままスルーしようとする。一方、すれ違った人物はというと、ゆっくりと振り返り立ち止まる。
「……あなたは何を迷っているの? 何から逃げているの?」
耳を擽る優しい声音に、隆昌は思わず立ち止まり振り返ってしまう。しかし、そこには人影はなく等間隔に並ぶ街灯の風景しかなかった。
「……気のせいだったか?」
妙に心がざわつく中、隆昌は何事もなかったかのように再び歩き出す。
隆昌が通り過ぎていったのを確認するかのように、謎の人物は電柱の影から姿を現す。完全に視界から遠ざかって行くのを確認し、口元を覆っていたマスクを外す。
「……次はあの人だね」
バッグから顔を覗かせるスウィートに、カラメラは口元を綻ばせるのだった。
ここは次世代の治安を守る警察官を養成する学校。主に警察官になりたての若者から、専門分野にチャレンジしようとする警官たちが集う。講義をしているのは窃盗検挙のプロフェッショナルである湯端勝徳。定年を控え、若い世代に今まで培ってきた技術を伝授するため開いていた。
さすがに率先して集まってきた警官達のため、勝徳の発する一言一句を聞き逃すまいと真剣な眼差しで聞き入っている。勝徳もふざけたことを教えるわけにはいかず、自分の経験談や捜査に当たり注意すべき点などを教える。
1時間にも渡る講義を終え、勝徳は持参した書類をまとめ会議室を後にしようとした矢先、自分よりも若い上司に呼び止められる。
「湯端さん、話があるんですが……」
勝徳の前に現れたのは、きっちりと制服を身に纏った長身の上司だった。
「折り入ってお願いがあるんです」
書類を小脇に抱え、勝徳は上司と相対する。
「引退を控えた身で恐縮なのですが、最後の現場に出ていただきたいのです」
「現場から離れて長い俺に、捜査指揮を執れと言うんですか?!」
上司からの意外な提案に、ベテランの勝徳も驚きを隠せない。
「無理を言わないでください。若手育成に協力しろと言ったあなたが、どうして俺を現場に戻そうとするんですか?」
「いろいろと事情がありまして、上から若手に実戦訓練を積ませることや、一向に減少しない窃盗被害をどうにかしろとの御達しがあったんですよ。私としても苦渋の選択をせざるを得なかったんです」
引退するベテラン捜査官に花道を飾らせるという、大義名分を与えようと画策しているのではと思えたが、若い奴らにも現場の状況を教える必要があったし、個人的にもあと1度くらい現場を指揮したいという思いも少なからずあったりした。
「……分かりました。その仕事、引き受けます」
現場という緊張感ある仕事に返り咲けると知り、勝徳は忘れかけていた捜査官としての勘を奮い起こそうとしていた。
数日後、ベテラン捜査官、湯端勝徳が1日限定で復帰する日がやってきた。
何年ぶりに訪れた会議室。そこに集いし顔見知りから新顔までの私服警官たち。揃った皆の目を見据え、勝徳は忘れかけていた捜査へ向かう瞬間に沸き立つ熱い鼓動に体が震える。
「君たちは、いち警察官である前に一人の人間だ。決して、無理はせず、自分も被害者も被疑者に対してもケガのないよう努めてもらいたい。以上だ」
起立した私服警官達に意気込みを話す勝徳。一瞬の気の迷いが過ぎるが、長年培ってきた経験が迷いを打ち払い奮い起こす。
勝徳の挨拶が終わると同時に一斉に私服警官は会議室を飛び出し、法と治安を守る番人として任務に就く。
犯行の半数以上が身動きのとり辛い満員乗車に集中している。
勝徳率いる私服警官達は全車両に均等になるよう人員を配置し、異常はないかを無線を介して伝える。
帰宅ラッシュに差し掛かったため、車内は文字通り鮨詰め状態。捜査のため乗り込んだとはいえ身動きが取りづらく、行動範囲や目の行き届く範囲が限られてしまう。
車両ごとに分かれた捜査官に不審なことがあればすぐに報告するよう指示を出し、犯行が行われる瞬間を捕らえようと手筈を整える。
久しぶりの現場に勘を取り戻そうとする勝徳の元に、スリ犯の疑いではなく、若者二人による小競り合いが起きているという一報が入る。勝徳は捜査に支障をきたしてしまうと考えつつも、事態を収拾するため仕方なくその車両へと向かう。
向かった車両へ行ってみると、人がやっと一人座れるだけのスペースを巡り若い男が口論していた。満員だったのにも関わらず、その場所だけがぽっかりと開き、周囲の乗客たちは迷惑そうに視線を向けるだけで干渉しようとはしない。
若い私服警官は男たちの間に入り仲裁しようと試みるが、二人ともかなり頭に血が上っているようで、冷静に物事を考えられないまでに興奮していた。
一向に事態の終息を迎えない状況に、勝徳も仕方なく仲裁に入る。道理を知った大人の登場に解決すると思いきや、席を奪われた男が暴れ始め力ずくで制止しようとする若い私服警官を払い飛ばす。飛ばされた先に座席を固定するポールがあり、そのまま頭を強打してしまう。かなりの衝撃を受けた私服警官は脚から崩れ落ち気絶してしまう。
「いい加減にしろぉぉぉっ!!」
車両に居る乗客が振り返るほどの怒号を轟かせ、勝徳は暴力を働いた男を護身術で組み伏せ床に押さえつける。
「全捜査官に告ぐ、直ちに4両目まで来てくれ。怪我人だ」
男を押さえつけたまま無線を通じ指示を出す勝徳。ゆっくりと男を立たせ、後ろ手に腕を締め上げる。
「公務執行妨害で逮捕する!」
身動きの取れなくなった男も、口論していた相手方の男もすっかり大人しくなり反省の色を満面に表す。
乗客を掻き分けやってきた警官に男を預け、勝徳は気絶してしまった警官の介抱をする。
「大丈夫か?」
気絶した私服警官の上半身を起こそうとした瞬間、不運急を告げる一報が入る。
『こちら、最後尾。只今、現行発生! 犯行を目視しました!』
集合した捜査官全員に緊張感が一気に走り、誰もが目を合わせる。次なる行動に出ようとするものの、電車の速度が徐々に減速していくのを感じる。
「まずい! 駅に止まる!」
乗客達の隙間から覗くホームの様子に、勝徳は難しい決断を迫られる。
ここで犯人を追うことも可能だが、負傷した警官を残しは置けず、激しい葛藤に襲われる。
ホームに電車が到着したと同時に、雪崩のように乗客たちは降り始めきつきつ状態だった車内が一瞬だけ空く。
「どうしますか?」
勝徳の周りに集まった私服警官たちが、逡巡する様に居ても立ってもいられず声を掛ける。長考の間に入れ替わるように再び多くの乗客たちが乗り込んでくる。
「……その場で待機だ。犯人の追跡をするな」
一人の負傷者を出してしまい、勝徳は指揮官としての責務を果たすため負傷した警官を病院へと送り付き添った。
夜の待合室にて力なくベンチに座っている勝徳。一人の空間の中、今日の出来事を思い起こしてしまい酷く落ち込んでいた。無力で役に立つことのできなかった自分を叱責し、指揮官としての力量のなさに嫌気が差していた。
「湯端さん、こちらにいましたか」
今回一緒に捜査に参加し、スリの一報を告げた私服警官が勝徳しかいない待合室へやってくる。
「……あぁ、君か」
完全に覇気を失ってしまった勝徳は、訪れたことに遅れて気付き俯いていた顔を上げる。
「……今回の一件、どう正当化しようとも全て俺が悪い。犯人を取り逃がした上に、同僚を負傷させてしまった」
「そっ、そんな、自分を追い詰めないでください。あなた一人が悪いわけじゃありませんよ」
「フッ、まだ若いから分からんだろうが、世の中、責任を追及され誰かがそれを負わなくちゃいけない。一度の失態だろうと許されることはない。それがプロっていうもんだ」
自分の踏んでしまった轍を、これからを担う若い世代が踏まないよう己が見本となったことを悟らせる。それが、現役を引退するベテランから教えられる教訓として。
「……あっ、そうでした。犯人が逃走の際に落としたものを持ってきました」
来た理由を思い出し、若い警官は透明なビニール袋に入れた落とした物を勝徳に見せる。
「おい……それ……」
袋の中身を確認した勝徳は、今までにない絶望感と間違いであってほしいと願う気持ちの坩堝に陥ってしまう。
「ホントに……ホントに犯人が落としたんだな?!」
事実確認をするため、勝徳は若い警官に食って掛かる勢いで問い詰める。
「えっ、ええ、確かです」
様子が豹変してしまった勝徳に何か違和感を覚えるものの、若い警官はビニール袋を渡す。
「あの……どうかなさったんですか?」
「……あの野郎、生き方を変えたんじゃねぇのかっ!」
手にしていた袋を床に投げ付け、勝徳は悔しがりながらベンチの背もたれを殴りつけるのだった。
季節は冬へ向かう経由地点である秋に差し掛かり、街の木々に彩を与えてくれる。
とある紅葉が綺麗な公園へとやって来た隆昌と桃子。観光客を狙った屋台がちらほら店を開き、紅葉狩りの時期を逃すまいと五感を刺激するような商品を提供している。二人も小腹が空き、屋台で御馴染みのたこ焼きを買い二人で食べ歩く。
「綺麗な紅葉ね。同じ葉なのに、日当たりや気温の違いで様々な色に変わる。自然って不思議」
綺麗に色づいた紅葉の樹を見上げ、桃子はゆっくりと歩道に敷き詰められた葉を踏みしめる。
「……そうだな」
一応、隆昌も紅葉を眺める体で接しているが、どちらかというと花より団子派で、徐々に冷めつつあるたこ焼きを食べる方に意識が言っている。
「……あっ、さっきからたこ焼きばかり食べてる。もっと、自然の美しさにも興味持たなきゃ」
「まぁ、綺麗だなって思うけどさ、見ただけでお腹は膨れないだろ? やっぱ、先にある美より、目の前の食べ物にいっちゃうんだよなぁ」
連続して二個・三個と食べたおかげで、口の端にソースやかつお節が付着している。
「もう、子供みたいに口の周り汚して……」
まるで子供の面倒を見る親のように、桃子は隆昌の口元をポケットティシューで拭く。一方の隆昌はやはり恥ずかしいらしく、視線を外し苦い顔をする。
しばらく紅葉で色づく並木道を歩いていると、反対側からロングコートを着た勝徳がやってくる。
「……お二人さん、紅葉見物かい?」
一瞬だけ身構えてしまう隆昌だったが、気を持ち直し、桃子を紹介する。
「こちらは湯端さんで、昔、世話になった警官なんだ」
「……警官」
隆昌から、昔、ワルでやんちゃをしていたと聞いていたが、知り合いに警官がいたと分かり体が強張ってしまう。
「桃子さんが今の恋人かい?」
勝徳の一言に緊張していた気持ちが切れ、お互いに意識してしまい照れくさそうに簡潔な言葉で肯定する。
「おぉ、そうなのか。付き合ってどのぐらいか分からんが、結婚の話とか出てるんだろ?」
勝徳は終始、長年見続けてきた父親のように和やかなムードで接する。それはまるで、次に待つ衝撃的なシーンを演出するかのように……
「えっ、えぇ、まぁ、なんとなくですが……」
この話題についてつい最近にも持ち上がっただけに、隆昌は正直な気持ちを素直に打ち明けることができなかった。
二人の関係性を知った勝徳は、徐にポケットからジッポを取り出し隆昌に向けて投げる。隆昌は反射的に受け取ると、それが何なのか瞬時に判別できた。
「……これって、隆昌のジッポ? どうして、湯端さんが持ってるの?」
何故、警官である勝徳が隆昌の使っているジッポを持っていたのか。それは、何を物語っているのか? 一つの結論が、容赦なく暴露されようとしていた。
「長年の付き合いだ。どう選択するべきか考えさせてやる。次の選択肢から選べ。1・仕事中に捕まる。2・自首。3・逃げる、だ。逃げるにしろ、一人か二人かで分かれるな。どの選択がいいか、二人でじっくり話し合って決めるこったな」
最後、見守ってきた年配者として、捜査をする警察官としての眼光を瞳に宿し、勝徳は二人の横を通り過ぎていく。
「……」
「……」
全てを見透かされてしまった隆昌。そして、全てを知ってしまった桃子。二人の間に気まずい空気が流れ、互いに話し掛けることにさえ恐怖し呆然と立ち尽くすのだった。
紅葉を観賞するムードが一瞬にして崩れ去り、二人はどちらからともなく家へ帰ることを選択した。その間、終始無言で帰路に着き、ようやく口を開くようになったのは家に到着してからのことだった。
だいぶ陽が陰り、電灯が必要となるかならないかの時間帯になったがそれでも自然光のみの空間で、隆昌がようやく重い口を開く。勝徳が残した伏線に従い、ありのままの現状を打ち明けた。
「……分かっただろ、俺が結婚しようって言わない理由が。桃子は、犯罪者と結婚しようとしていたんだ」
隆昌にとっても辛い告白であったが、それ以上に辛い思いを桃子は受け止めなければならなかった。
「今なら……今だったら別れられる。お互いのために……」
水を打ったように静まり返った室内。テーブルの向かいに座る桃子は、終始無言で俯いたまま身動き一つしない。それは何かを耐え、最良の言葉を紡ぎだそうと足掻いているようでもあった。
「私……私、別れたくない、絶対!」
ゆっくりと上げた顔には全てを理解し、全てを受け止め、決意を固めた揺ぎない意志に満ち溢れていた。
「桃子……」
「私、隆昌と離れたくない……だから、一緒に逃げよう。そして、違う場所で
暮らそう、ねっ……」
自らも犯罪者の片棒を担ぎ、一緒にいたいと宣言する桃子。隆昌以上にリスクを背負い込むというのに、彼女はそれでも離れたくないと答えを導いていた。
「……ダメだ。巻き込むようなマネ、俺にはできない。別れるんだよ、俺たち。
それが何よりの最善策だ」
これ以上、話したくもないし、桃子の話を聞く気にもなれなくなった隆昌は流れそのままにアパートを飛び出す。後腐れなく、何もかも消去するつもりで。
陽はすっかり暮れ、辺りは夜の帳が降り始めていた。
着のみ着のまま飛び出した隆昌は、何かを求め夜の街を徘徊した。勝徳が提示しなかった第4の選択を自ら導き出し、それを実行できる場所を探し歩いていた。
できるだけ人目につかず、増して人為的に制止できない場所。そして、一番に肝心なるのは、命を絶てること。
自責の念に駆られ、自分の死に場所を求めていた。今までに犯した罪の数々。人を裏切り、人を利用してきた。そして、何よりも最愛とも呼べる存在の桃子を苦しめていた自分が許せず、隆昌は自分の処分を己の下した判断に従い実行しようとしていた。
繁華街を離れ、隆昌は人気のない地下鉄が走る橋の上へとやって来た。自分の命を絶つ場所が、今まで自分のフィールドとして利用していたものだと思い、隆昌の顔には皮肉混じりな笑みが浮かんでいた。
「……これでいいんだ。これで、俺は、何もかもから解放される……」
自分の背丈よりも高いフェンス越しに下を窺い、これで命を絶てるのだろうかと疑問が浮かんでしまう。しかし、それは単なる躊躇いだと切り捨てフェンスに手を掛け登ろうとする。
「……あなたの導き出した答えは、これなのですね」
不意に声を掛けられ、隆昌は一瞬心拍数が跳ね上がり素早く手を掛けていたフェンスから降りる。
「だっ、誰なんだ、お前」
「……それで全てが解決すると思っているの? それで、全てが救われると思っているの?」
違和感のある服装のカラメラは、隆昌の問いを答えることなく続ける。顔を覆っていた布を外し、大きなショルダーバッグから不思議なオーラを放つ瓶を差し出す。
「あなたの心に、1粒のキャンディーを」
両手で差し出された瓶や、人間とは思えない目に見えない恐怖に慄くものの、隆昌は瓶の中へと手を差し入れる。間もなく差し入れた手の中に何か固形のものが現れたのを感じ、ゆっくりと手を引き抜く。恐る恐る手を開いてみると、そこには1粒の白いアメがあった。
「それが、あなたの癒しの1粒なんですね」
終始、人形のように表情のなかったカラメラだったが、隆昌の手の中にあるアメを確認し柔和になる。
掌にあるものが本当にアメなのかを確かめるため、隆昌は恐る恐るゆっくりとアメを口に含む。入れた瞬間、口一杯に広がっていく清涼感。
その感覚がある記憶を思い起こさせる……
あの頃の俺は血気盛んで、ある意味やんちゃで、ある意味どうしようもなくバカヤロウだった。善と悪の区別もなく、ただ毎日が楽しければそれで良かった。
年端の行かないガキだった俺は、スリで初めて捕まった。そう、あの湯端さんに。
全ての大人に反感を抱き、絶対大人なんかになりたくないと尖がっていたあの頃、俺は大人が発する言葉全てに耳を逸らし聞く耳を持たなかった。
粋がっていた俺のことを、湯端さんは親身になって考えてくれた。大人として、男としての生き方を教えてくれた。そして、眠気覚ましになると言っていたハッカあめをなめさせ、お前もこんな腐った生活から目を醒ませと教えられた……
いい年になったってのに、何にも変わっちゃない。あの人から教わったこと、全然活かせちゃいない。桃子っていう大切な存在まで現れたってのに、お前は昔のまんまだ。変わるんだよ、今、この時から……
記憶が呼び起こす遠き過去のキオク。長年に渡って進歩を見せない自分。そんな過去と決別するため、隆昌はある場所に携帯から電話を掛ける。
その時にはもう、カラメラの姿はなかった。
隆昌の居なくなった部屋。
音を発する電化製品を全て消し、一人残された桃子はソファーに覆いかぶさり顔を埋め泣き崩れていた。いつでも隆昌からの連絡が来るかも分からないため、傍らには携帯が置かれていた。
その携帯を涙で濡れた瞳で窺った瞬間、突然バイブレーションと同時に着メロが流れ、発信者が誰なのか瞬時に気付かせる。
「……隆昌!」
素早い瞬発力で携帯を掴み取ると、急いで通話ボタンを押す。
「もしもし、隆昌!」
『あぁ、俺……』
待ちに待っていた人物からの電話に、桃子の胸は安堵感に包まれる。
「どうしちゃったの、急に家を飛び出したりして」
『……ゴメン。何か、パニくっちゃって、頭ん中が真っ白になっちまって、気付いたら飛び出しちまってた』
隆昌の声を聞きながら、桃子は外していたメガネを掛ける。
「そう……ねぇ、家に戻って来てくれるんでしょ? ちゃんと話……」
『あのさ、桃子……俺、決めたことが二つあるんだ。一つは、俺、野郷隆昌は茅場桃子と結婚する。俺の妻になってくれるか?』
突然のプロポーズに、今度は違う涙が止めどなく溢れてくる。安心感や嬉しさが心を体を優しく包み、今まで抱いていた負の感情が掻き消されていく。
「うっ、嬉しい……もっ、もちろん、断る理由なんてないよ……」
止めどなく溢れ出る涙をメガネの下から入れた指先で拭う。
『そうか……そう言ってくれると、俺も安心して刑期を全うできるよ』
「えっ、刑期?」
『……何年先になるか分からないけど、俺が戻ってくるまで待っていて欲しいんだ。必ず、迎えに行くから……』
「うん……うん……待ってるよ。ずっと、待ってるから……」
桃子との電話を終わらせ、携帯を切る隆昌。自分の気持ちを素直に打ち明け、隆昌の心に迷いはなかった。その証拠に、穢れた心を洗い流す涙が一筋零れ落ちていた。
「話、つけたようだな」
歩み寄ってくる初老の刑事。勝徳は優しく隆昌の肩に手を乗せ、決意したことを確かめる。
「あっ、あぁ……」
一度、手の中にある携帯を見つめると、そのままギュッと握り締める。
「それじゃぁ、行こうか……」
勝徳に肩を抱かれ、隆昌は共に警察署へと入っていった。泣いていたことを誤魔化すように宙を仰ぎながら。
END