仏教とは極楽を目指しているのではなく成仏を目指している
南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土に行くのは正直やっぱり違うと思う。まあ、宗派的な話には興味ないけど、それはもう仏教である意味がないじゃないかと思えてならない。
宗教と学問と仏教と言っても色々な切り口はある、けれど基本は
「人間は生きていても苦しいことばかりだから生きるのをやめよう」
それが仏教かなと。
有名な「生・老・病・死」の四苦。最後の「死」で苦しみが終わるのかといえば、終わらないのが仏教。輪廻転生という考え方で死んだ後には別の世界…六道のいづれかの道で再び生を受ける。
六道の中で最も上等ともいえる「天道」にしたところで、魂の安らぐ場ではなく、輪廻転生から解脱を目指す修行の地であり、安寧の地ではない。天道とは天国ではない。
キリスト教などでは死ぬと死後の世界にとどまり、最後の審判で全ての人類が裁かれるまで待つ事になる。そして天のエルサレム…いわゆる天国で永遠を生きることになる。
永遠を苦痛と考える仏教とは全く違う…というより仏教以外大体、地獄よりも無を人間にとって最大の苦と考える。「魂を喰われ何も残らない」なんてのは最悪。
「永遠を生きる、そこに苦しみもない」なら仏教においてもそれであれば「生きるのをやめよう」とはならないのかといえば、どうなのだろう?そもそもが「苦の無い永遠の生など有り得ない」が仏教的な答えではないかと思う。
転生を繰り返す永遠の苦しみから解放された存在が仏陀…「仏」であり、その仏となることが「成仏」であり、死ぬこと=成仏ではない。悟りを得ないことには成仏できないのだ。
悟りとは何かというのは何かの思考における答えを見出すことではないので生きている間は難しいのではないだろうか。が、その生きている間に成仏を目指し、それを為したものが「即身仏」と呼ばれる存在。即身仏はミイラではなく、生きて仏となった者なのだ。が、前述の通り「生を苦しみとしている」ので、即身仏は「生きてはいない」と考えていいだろう。
「成仏」するとどうなるのか、それが「涅槃」と呼ばれる状態なのだけれど、さてどうなのだろう。「涅槃」は「無」なのか「有」なのか。「仏」には人格があるかのように描かれてはいるけど、人間が成仏した場合、実質「無」に近い状態になると思われるので、会話だとかは出来ない気はする。
なお、仏教においても「神」は存在する。これも解釈は色々あって、菩薩や明王が仏だったり神だったり、そのどちらでもなかったりと。
ただ、最も一般的な考えにおいては「天部」…天界…六道における天道の住民を「神」とする考え方。人道の住民が人で、阿修羅道の住民が阿修羅というのと同じ。
つまり、仏教における神とはそれほどに大した存在ではないのだ。○○天と呼ばれるのが天部とされる方々。帝釈天とか大黒天とか、アレが仏教における神。彼らとて解脱を目指し悟りを得ようとしている存在で「仏」と比べるとランクが落ちる。
「神仏」という時の「神」とは主に神道における「神」を指すのだけれど、天道の住民を「神仏」に混ぜる事は特に問題はない。
ジョジョの奇妙な冒険第2部ラスボスの「考えるのをやめて鉱物化した」カーズは即身仏と考えていいだろう。
なかなか「勘違いしてそうなこと」の題材は難しい。




