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「せんせい、これ、はつおん、むずかしいです」
「おや、どれどれ。では私がゆっくり話しますので、復唱してみてください」
「はい」
今日も僕は私室でこの国の言葉を習っている。一か月半ほど経って理解できる言葉も増えてきて、聞き取りは楽になってきた部分もあるけど、自分の思ったことを伝えるにはすぐに言葉が出てこなかったり、上手く発音できなくて伝わらないこともまだまだ多い。
「“ルース地方”」
「“ゥースちほう”」
「ルース」
「ゥース」
先生に続いて復唱してみるが、やっぱり自分で聞いててもちょっと違う。まだ上手く喋れないことが辛い。
僕に色々な事を教えてくれている“ロアン先生”は、普段は王宮内で文官として働いているらしい。フリームトさんより少し若い、ヘルマンさんよりちょっと年上くらいに見える、穏やかな人だ。僕が聞き取れなかったり理解できていないときは、その都度言い直したり丁寧に説明してくれたりするから非常に助かっている。
「神子様は”ル”の発音が難しいようですね」
「ゥ?」
「うーん、そうですね」
僕の発音に先生は困ったように微笑む。そうなのだ。その“ル”が問題なのだ。自分でもこれが一番発音しづらいなと思ってる。聞き取りは出来るのに、同じように話そうとすると舌がもつれる。英語でいうところのThとかRとLの違いとか、その発音をしようとすれば意識してなんとかできるけど、いざ会話の中でしゃべると上手く言えないとか、そういう感じに似てる。
いや、僕はまだこの世界の“ル”の発音自体がうまくできなくて、会話の中でもそうじゃなくても関係ないけど。でも、同じ“ル”でも日本語と同じ発音のものもあれば、ヘルマンさんの名前のようにちょっと発音しにくい“ル”もあるから難しい。
「こればかりは繰り返して慣れるのが一番ですね」
「そうですか…。がんばります」
「おや、もうこんな時間ですか。神子様が勉強熱心で一生懸命に話をお聞きくださるので、あっという間でしたね」
ロアン先生が壁にかかっている時計を見て言った。もう十三時か。言われてみれば少しおなかがすいた気がする。この世界の時間の概念が、僕の元居た世界と同じだからわかりやすくていい。一日が24時間、一ヵ月が30日~31日。一年が365日。そんなところは全く同じっていうのがなんだか不思議だ。太陽のようなものもあって、朝に日が昇って、夜に沈む。でも月はない。僕の世界と同じところもあれば全く違うものも多い。
「本日はこれで終わりにしましょう。お疲れさまでした」
「はい。ありがとうございました。ロアンせんせい」
立って一礼して、先生が退室するのを見届けた。
初めて先生が授業をしに来てくれた時も、はじめに立って挨拶と一緒に一礼をしたら、それはそれは驚かれたのを覚えてる。どうやら神子は先生より偉い立場なのに、頭を下げたからびっくりしたらしい。僕としては教えてもらう側なのだから、よろしくお願いしますという意味で、礼をしているだけなんだけど、この世界では目上の人から頭は下げないようだ。たしかに、あの王様もなにかお願いするときに頭を下げることはないだろうな…と勝手に想像して納得した。
それでも、教えてもらっておいて礼もしないのはなんだか気持ち悪いので、今は何も気にせずしている。ロアン先生もすぐに驚かなくなって当たり前のように受け入れてくれた。
ロアン先生が帰った後、そばに立っていた騎士さんが侍女さんに声をかけて、昼食が部屋に運ばれてきた。
そう、今日はヘルマンさんがいない。代わりにたまにヘルマンさんがいないときに来てくれる騎士さんが傍についてくれている。ヘルマンさんは領地の様子を見に戻らないといけないらしく、僕がこの世界に来てから初めて長期間ヘルマンさんが不在となった。
ソファに座って並べられていく昼食のセットをぼんやりと見ながらヘルマンさんがここを発つ前のやりとりを思い出していた。
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「神子様。大変申し訳ないのですが、明日からしばらく、私の代わりの者が神子様の護衛につかせていただきます」
ここ最近一緒にお茶休憩をしてくれるようになったヘルマンさんと、ソファに並んでお茶菓子をつまんでいたところ、急に振られた話題に僕は固まってしまった。
お茶菓子に伸ばしていた手を止めて、ギギギと音が出そうなほどぎこちなく首をまわしてヘルマンさんに振り向く。
「私は基本的には王都にいるのですが、任せられている領地の様子も見なければならないのです。今までも定期的に領地に戻る期間があり、今回その時期が来たのです」
「そ、そうなんですか」
それは仕方ない。仕事なんだから。
だけど、今までほぼずっと一緒にいてくれてたヘルマンさんがいなくなることが、僕は思いのほかショックだったようだ。めちゃくちゃ動揺してるし、相手にもきっとそれが伝わってしまってるのも分かる。この世界に来た直後からずっと優しくしてくれてるヘルマンさんに依存してしまっている。これは良くない。
僕についてるのだって仕事だからやってくれてるのに、当たり前に思うのは良くない。
「神子様…」
「あ、あの、りょうちとは、とおいですか?」
「そうですね、馬で三日ほどかかります」
そうか。この世界に車や飛行機なんてあるはずないし、魔法みたいなものでもさすがに人を一瞬で移動させることは出来ないようだ。
「普段は一ヵ月ほど領地へ戻るのですが」
「えっ!いっかげつ!」
思わず声を荒げてしまった。ヘルマンさんも驚いた顔をしている。
ああ、違う、そうじゃないんです。ごめんなさい、僕はいつからこんなに甘ったれた男になったんだ。子供じゃないんだから、ヘルマンさんが傍にいないからって狼狽えてどうする。
そもそもずっとヘルマンさんは僕についてて、休みらしい休みも取ってないじゃないか。一日ほぼずっと立って僕の警護なんて言う面倒くさい仕事から離れられるチャンスなのに、僕が嫌がってどうするんだ。
「今回は様子を見に戻るだけですので、1週間ほどで戻ってきます」
「…いっしゅうかん…」
ヘルマンさんはなんだか優し気に目を細めて言う。僕の慌てっぷりが滑稽だったのかもしれない。でも、一週間か、良かった。やはり甘ったれだった僕はヘルマンさんの言葉に安心した。
「私が不在の間はルイスに任せます。今までも何度か来たことがあるので、神子様もご安心頂けるかと」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
自分がいない間も僕の事を考慮してくれる言葉に嬉しくなる。けど、ヘルマンさんの代わりという騎士にドキッとした。“ルイスさん”。名前だけ聞いたら誰だか分らなかったけど、僕のところに何度か来ていたヘルマンさん以外の騎士と言えば、一人しかいなかった。今までもヘルマンさんが休憩のために抜けるときや、ごくたまに一日だけ休みを取った時などに代わりに来てくれた人だ。
僕の身の回りのお世話をしてくれるメイドさんや、ヘルマンさん、ロアン先生は僕に対して敵意を見せてくることはなくて、ここに来たばかりの頃のような緊張感は落ち着いて、安心して過ごしていた。だけどその騎士さん、ルイスさんが僕の部屋に初めて訪れた日、僕はやっぱり皆に受け入れられてるわけじゃないことを改めて知った。
僕がその時のことを思い返していると、急に手を取られた。
見ればヘルマンさんがその大きな手で僕の手を握っている。
「なるべく早く戻るようにします。神子様に不便がないようにしっかり命じておきますので、なんなりとお申し付けください」
その優しい笑顔に思わず見惚れてしまった。僕と同じ男なのに、こんなに違うのか。イケメンすぎる。カッコよくて思いやりもあって優しくて気遣いもできて、こんなに良い人そうそういないんじゃないか。この人が僕のそばにいてくれて、僕は本当に幸運だ。
握られた手の甲を親指で撫でられる。一緒にお茶をするようになってから、ヘルマンさんは僕が不安そうにしていると時々こうして触れてくれる。くすぐったいけど、こうして触れてもらってるとなんだか安心するから不思議だ。人の体温って、大事なんだなって最近つくづく身に染みた。
「あの、けがしないで。きをつけて、いってきてください」
領地に戻るだけだから、騎士として何か仕事をするわけではないと思うけど、何か危険な目にあったら怖いから声はかけておこう。僕の言葉にヘルマンさんはまた目を細めて笑ってくれた。
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テーブルにセッティングされた昼食を取りながら、僕はふとルイスさんに視線を向けた。彼は壁際で前方を見て黙って立っている。
正直言ってすごく食べづらい。
仕事だから僕から離れられないのかもしれないけど、無表情でただ黙って立っていられるとこちらとしても居心地が悪い。ルイスさんは僕のことを良くは思ってないから、特にそう感じるのかもしれない。ヘルマンさんが同じように傍にいたとしても、居心地が悪いなんて思わないのだから。
初めてルイスさんが僕のところに来た日に、仲良くなりたくてコミュニケーションを取ろうとしたことがある。まずは挨拶と、何て呼べばよいかを尋ねるために名前を聞こうとしたんだっけ。
まだ上手く喋れてなかったかもしれないけど、僕が話しかけた言葉に、ルイスさんは明らかにどこか怒ったような表情をしていたのを覚えてる。
高い位置から冷たい視線で見下ろされて、「お伝えする必要はありません。ずっとあなたのおそばにつくわけではないのですから」と返答されたのは衝撃だった。
言葉が分からなかったとしても、明らかに悪意を持った雰囲気で喋られれば、僕に対してどういう感情を持っているかなんてわかりやすい。
結局それ以降名前を聞くこともできず、話しかける勇気も持てずそのままだった。会話らしい会話は一切ないままで、僕としてもたまに会うくらいの人だから、わざわざ相手の機嫌を損ねるようなことはしないようにと、出来るだけ関わらないようにした。
それが、この一週間ずっと一緒にいることになるなんて、なかなかにしんどい。ヘルマンさんが居なくなって3日が過ぎた。今頃は領地についてる頃だろうか。気が付けば、今ヘルマンさんはどうしてるかなって、そればっかり考えてしまう。
「神子様。昼食を召しあがらないのであれば下げさせます」
「あっ…、す、すみません。たべます」
ルイスさんから急に話しかけられて焦ってどもってしまった。もともと喋りがへたくそなのにさぞ聞き取りづらいのか、僕の言葉に彼の眉間に皺が寄る。もう視線を合わせてられなくて、慌ててテーブルに向ける。
「民の税であなたの生活のすべてが賄われているのです。無駄にすることのないようにお願い致します」
この三日、僕に話しかけることなんてほぼ無かった彼からの言葉に驚いた。それに物凄く威圧感のあるもの言いだ。考え事をしながら食べていたから、手が止まっていたのは確かで、僕がそれ以上食べられないと思ったのかもしれない。
棘のある言い方だけど、ルイスさんが言っていることは至極もっともだ。僕は何も言えずただ、はい、と答えるしかない。
僕が食事を黙々と食べ始めると、ルイスさんはそれ以降、話しかけてくることはなかった。
昼食を食べて、歯磨きをして、少し休憩した後また勉強机に向かう。今日習った言葉を書き取り、発音を繰り返し、地図を見ながら地名を読み上げていく。その間もずっとルイスさんは気配を殺して立っている。気にしないようにしながら、でもなんだか背中が気になって、なかなか集中しづらい。
「あの…」
僕は振り返って、意を決してルイスさんに話しかけた。彼は返答するわけではなく、ただ黙ってこちらを見ている。
「としょかん、いきたいです…」
この王宮内に併設されている図書館は、国内でも最大規模の図書館らしく、限られた王族・貴族や学者などしか入れず、一般庶民は出入りできないらしい。僕が移動できるのはこの王宮内でもごく限られた場所だけで、その中で図書館は出入りが許されている。もちろん護衛騎士付きで。だから、僕がそこに行きたい場合は、ルイスさんについてきてもらうようお願いしないといけない。
ルイスさんは特に返事もなくドアに向かって歩き出した。僕もあわててそれについていく。ルイスさんがドアを開け僕が出ると、彼が先導して歩き出した。
少し入り組んだ道だから、まだ図書館までの道順は覚えられていない。僕が普段いる部屋は王宮の中でもかなり奥まったところにあるようで、広い廊下を歩いていてもあまり人とすれ違わない。たまに他の騎士が廊下に立って、警備しているのを見る。その中にも僕を睨んでくるように視線を向ける人がいる。僕はいつもそういった視線を俯いてやり過ごすしかない。
こうしてヘルマンさんから離れてみて、僕は結構いろんな人から良く思われていないんじゃないかって感じるようになった。あの部屋の中に居て、ヘルマンさんといる時は微塵もそんなこと感じないのに。
他の人と関わることがほとんどないから、なぜ僕が疎まれるのか、理由が分からない。言葉が話せない神子だからなのか、神子として頼りなさげに見えるのか、それともほかに何か理由があるのか。
ルイスさんに直接聞いてみれば話は早いのかもしれないが、僕にそんな勇気はなかった。
気が付けば、図書館に辿り着いていた。中へ入ると僕はあたりを見回して目的の本を探し回った。まずは絵本が多く置かれているエリアを目指す。絵と文字が一緒にあるので、言葉を覚えるのにとても良い教材になるのだ。
絵本のエリアを見つけて2冊ほど手に取り、その次は歴史の本を探す。大人が読むような本ではなく、もちろん子供向けの簡単な内容でまとめられているものだ。僕の言語レベルではまずはそういった物で知識を吸収していくしかない。
目的のエリアに辿り着いて隅から隅まで探してみるが、あまり子供向けの本はなさそうだ。限られた人しか利用できない図書館だから、貴重な書物が多く置かれているが、基本的には専門的な内容の物が多そうだ。もっと簡単な内容の子供向けみたいなものは、多分普通の図書館にあるのかもしれない。
諦めて絵本だけ借りて戻ろうかとしたとき、本棚の奥も奥、すごく高い位置にあるのになぜかふと目にとまった本があった。
『なんだあれ』
多分、梯子でも使わなければ届かない場所にあるのに、なぜか気が付いた。
読めるのだ。背表紙が。
いや、他の本もある程度この国の文字を理解できるようになったから読めるんだけど、それとは違って、まるで日本語のように頭にすんなりと入ってきた。日本語のように、と表現したように、背表紙に書かれた文字が日本語じゃないことは分かる。日本語じゃない、異国の言語であるはずなのに、なぜか文字がすんなりと頭に入ってくる。なんだか不思議な感覚で、僕はその本がどうしても気になった。
きょろきょろとあたりを見回すと、少し高さのある木製の足台が置いてあった。試しにそれを使って取ろうとしたが、案の定全く届かない。これは、頼むしかないか。
どうしようもないので、仕方なく傍で一部始終を見ていたであろうルイスさんに声をかけた。
「あの…、ほん、とっていただけますか?」
ルイスさんは小さくため息をついて、仕方ないというように足台に乗ってくれた。嫌々やられるのも気分は良くないが、彼に頼るしかない。
「その、うえの、みぎの…」
僕の拙い説明でルイスさんは目的の本を取ってくれた。足台から降りてその本の表紙を見て眉間に皺をよせ首を傾げる。そのまま本を裏返して、中身も開いてペラペラめくる。
どうしたんだろう。なにか変な本かな。
僕が渡されるのを待っていると、一通りさっと目を通したルイスさんの視線がこちらに向いた。
「これでよろしいのですか」
「え、は、はい」
「そうですか」
そう言ってルイスさんは腑に落ちないような表情をしながら本を僕に渡してくれた。普通に本を渡してくれてホッとして、僕は絵本とこの本を抱えて部屋に戻ることを伝えた。
図書館を出る前に、受付で本の貸し出し手続きをしてくれた司書さんも、この本を見た時は首を傾げた。なんなんだろう、何か変なのかな。僕には分からない。でも、特に問題なく貸し出しの手続きが終えられたので、そのまま部屋に戻ることにした。
またルイスさんは所定の位置に戻り、僕は借りてきた本に目を通す。
絵本はとりあえず置いておいて、一番気になっている謎の本だ。表紙には“アレスタリア魔封じ術”と書かれている。なんだこれは。
歴史の本ではなさそうだけど、魔法関係の本なのか。てことはこれは僕には何の役にも立たないのかもしれない。
そう思いながらとりあえず中をパラパラと目を通してみる。
うーん、なんか図とか文字が羅列してあった、読めるは読めるけど何のことを言っているのかさっぱり分からない。例えば日本語で難しい物理学の専門の本があるとして、日本語として記載されている内容は読めることは読めるけど、何の話をしているのかさっぱり理解できない、そんな感じだ。
僕はその本を閉じて溜息をついた。これは今は役に立ちそうもない。やっぱりあの図書館には専門書が多いみたいだ。
とりあえず絵本から先に目を通すことにした。絵本の内容を読み、口に出し、書き取る。ロアン先生から渡された教材も、明日の授業分を軽く目を通しておく。そうしているうちに日は落ちはじめ、部屋が暗くなってきた。羊皮紙に書かれている文字が見えづらくなってきたところで、僕はルイスさんに声をかける。
「あの、あかり、おねがいできますか」
ルイスさんはまた黙って、部屋の明かりをつけるために、壁のスイッチのようなものに魔力を通してくれた。すると天井に設置されたシャンデリアのようなものに明かりが灯り、一気に明るくなる。
「ありがとうございます」
こうしてヘルマンさんと離れると気づくことが多い。
ヘルマンさんが居た時は何も言わずにやってくれていた。僕はそんなことも気づかず、当たり前のように感じてしまっていて、随分甘やかされていたんだなと気づいた。
かといって僕自身に明かりがつけられない。それが出来ればわざわざヘルマンさんやルイスさんに手間をかけさせることもないのに。自分で出来ないことが多くてもどかしい。
神子としての力も発揮できないし、言葉もまだまだ拙い、その上最低限の日常生活も誰かの手を借りないといけない。
こうして思い返してみれば、僕自身が良く思われないだろう理由が分かる気がした。多分、歴代の神子に比べて、かなりおんぶにだっこ状態のはずだ。そりゃ、嫌われるのも納得できるかもしれない。
僕はこっそりとルイスさんに振り向いて心の中で謝罪をしておいた。




