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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

輪廻の秘蹟

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 いつまでも、いつまでも、続く、青い空。それは、永遠の悪夢を見るかのように、孤独な牢に囚われた罪人として、私を定義付けしていた。


「また、晴れ……か。」

 快晴。ひとりでに天が、そう喚いているようであった。

 『気候変動に対する国際的枠組み』が改訂されて十年。長年、人類を悩ませ続けた地球温暖化とそれに連なる気候変動も、大気中のCO2分離技術の実用化と炭素循環システムの完成により、ようやく、安定化への目途が立ち初めて、それなりの歳月を経た。国際社会は、その均衡を保つべく、気候変動被害国に対する補償と支援を稼働させている。

 それと同じ速度で、今まで続いていた、いわゆる異常気象の類も、落ち着きつつあるようであった。今日のこの快晴も、その影響であり、本来、雨期に当たるこの季節に、今日のような晴れ間が現れるのは、七十二年ぶりのことだと、今朝のニュースで述べていた。

「昔は、梅雨と秋雨に別れていたと言うけれど。」

「それは、もう、百年以上前のことだろう。」

 いつも、私と妻との会話は、たわいない雑談から始まる。

「私たちは、雨期と乾季しか知らないからね。」

 祖母が子どもの頃には、まだ、日本に四季があったという。しかし、私が生まれた時には、もうこの国に四季というものはなくなり、一年を二分する雨期と乾季があるだけであった。

「でも、生態系園に行けば、四季を感じることはできるわね。」

「う~ん。考えておくよ。」

 私も子どもの頃に、一度だけ体験したことがある日本生態系保護観察施設は、巷では、生態系園と呼ばれているらしい。

「アバターじゃ、だめ?」

「自分の肌で感じるのが、心の安らぎになるんですって。」

「感覚刺激なら、アバターも変わらないよ。」

「もう、どうしてそんなこと言うの。」

 妻との些細な日常会話である。妻から言わせると、いつも、私は無神経なことを言って、妻を怒らせているようであった。

「もっと、人間らしさを大切にしたら。」

「人間らしさ、ねえ……。」

 そういう妻の傍らには、AIアンドロイドが立って、料理の下ごしらえをしている。人間らしさを求めるのであれば、料理の下ごしらえからも、妻自らがやるべきだと思うが、その矛盾を指摘すると、さらに、妻の神経を逆なですることになってしまうのは、さすがの私も知っていた。なので、私は、その論議の論点からは外れて、他の話題を持ち出すことにした。

「ところで、魔術師協会のことなんだけどさ。」

「えっ……?」

 妻の表情が曇るのが分かった。

「ほら、市街地区に出没した猿の捜索に、魔術師が参加することになるかもしれないって。」

「ああ、あの話?」

 今から、約ひと月ほど前、我が家から、ほど近い市街地区で猿が目撃されたとニュースで話題になっていた。野生の猿は、田舎の山間部に行けば、生息しているはずだが、市街地区に現れることは、遡っても、百年以上前にもあるかないかということらしい。

「野生生物は感染症の危険があるから、自宅待機勧告が出てるけれど。」

「捜索隊のアバターが、たくさん街中に出てるから、邪魔にならないようにでしょう。」

「それも、あるけど。」

 一昔前のパンデミックを境に、社会は感染症に対して、より厳しさを増している。それらの対策には、一部、反対する有権者もいるが、実際の所、自宅待機であろうが、なかろうが、アバター空間システムが導入されているので、何ら、人々は不便をかけることはないのである。それでも、本来、自由意思は人間に与えられた本性に準ずる権利であるとして、不当に自由を拘束する当局機関と市議会に、人々は不満をぶつけている。そして、その討論の過程も、ほとんどの有権者がアバター空間システムを通じて行っているのも、私には、いささか、矛盾を感じざるを得なかった。

「魔術の発展は、科学の下支えがあって、成立したものだけど、魔術師の中には、魔術に対する科学の干渉を嫌がる人もいるらしいから。」

「神秘主義者たちでしょう。」

 一時期、魔術は、超能力やオカルトなどという蔑称で呼ばれていた時期があった。それは、私の生まれる前の話ではあるが、魔術への差別問題は、私の子どもの頃から、今日まで、未だに続いている。科学技術が発展した今日においても、解明できない問題というのは、山積みであった。それは、連綿と過去から続いていたものもあるが、更なる科学の発展が生んだ謎もあった。前者の例が魔術ではあるが、魔術は一部分、後者をも含んでいた。そして、これも、私が生まれる前の話ではあるが、様々な議論を経て、正式に魔術というものがひとつの科学分野として設定されることになった。

「魔術師協会の定義には、科学は普遍的であるが、魔術は特殊的である。前者は、万人にその使用と恩恵を与えるが、後者は、特別な者にだけ、その使用を許す。とあるらしいね。」

「高慢ちきが目を見張るわ。」

 妻は教育機関の職員をしている。昔で言う教職ではあるが、彼女の与える恩恵は万人向けのそれであった。

「さてと……。」

 話の途中ではあるが、私は、妻との会話を打ち切らざるを得なかった。

「どうしたの?」

「伏せて。」

 突然の爆音が弾けて、傍らのAIアンドロイドが爆発四散した。

「きゃあ!!」

「君はここを動かないで。」

 妻をキッチンの隅に追い遣ると、私は裏口の扉を開けた。裏庭には、割れた強化プラスチックの破片が散乱していたが、それには構わずに私は物置に向かった。そこには、作業用の身体拡張ユニットが置いてある。その電源を入れて、滞りなく、私は身体拡張ユニットを装着した。

「physical expansion 10x」

「身体拡張十倍に合わせました。拡張機能使用時及び使用後の過度の身体的負担に関しては、当社は一切、責任を負いませんので、ご了承下さい。」

 AIによる音声が流れた。

「manual mode。」

「手動方式に切り替わります。」

 作業時ならば、AIアシストによる補助があった方が楽なのだが、これから、私が行う行為に関しては、AIアシストは不要である。なぜならば、AIが自他の運動を予測しなくても、既に、私はそのことを知っているからである。

「(間に合え。)」

 身体拡張により、高さ1.5mの簡易フェンスを飛び越えると、私は、平均時速60km/hの速度で走った。身体拡張ユニットはマニュアルモードではあるものの、使用者の身体を守るセーフガードシステムは機能したままである。それにより、身体各部の負担は安全な数値内に保たれてはいるものの、時折、所々で関節の軋む音がした。

「ここ。」

 人工光合成用のバイオフィルターが建っている地点で、私は飛んだ。

「痛っ。」

 筋肉に痛みを感じた。しかし、地上8mの高さを放物線を描いて飛んでいる私の後方では、バイオフィルターが爆砕される破壊音が轟いていた。

「見つけた。」

 私は魔術師を探していた。そして、我が家から、約1km離れた災害避難用の空白区にある高台に、その人物は立っていた。その人物が、魔術による爆発で、我が家を襲った張本人であった。

「ふう……。」

 私は、それほど上がっていないはずの息を整えた。

「1.2.3……。今。」

 小声に響く私の声は、ある種のカウントを数えていた。そして、それが数え終わると、私は何も考えず、ただ、上空へ飛んだ。

「なぬ……。」

 私のわずか4m前方にいる相手の魔術師は、その私の行動に呆気をとられると同時に、驚異を感じていたのだろうか。そのような得も言われぬ間の抜けた声が、相手の唇から漏れていたのが身体拡張ユニットの感覚補正を受けた私の聴力を通して聞こえた。私が言うのも何ではあるが、それだけ、今回の私の行動のタイミングは絶妙であり、完璧と言いたい程のものであった。

「power off。」

「緊急時用の非常停止装置を作動します。」

「あ……。」

 私の下方で弾けた爆発は、五階建ての災害避難用である高台、その五階部分の床を激しく揺らした。そして、その爆風を受けて、激しく飛んだ私の体と、電源を切り、全ての補正を解除した身体拡張ユニットが、その重量とともに引力を受けて床に着地して、急激にその運動量を減少した瞬間、それらの合力により五階建ての高台は床もろともに崩れていった。

「power on。」

「身体拡張ユニットを起動します。身体拡張の補正値を決定して下さい。」

「physical expansion 3x。」

 その時、私の後方で物音がした。私が振り返るのと同時に崩れ落ちて来たおよそ100kgはあろうかという鉄骨材が身体拡張ユニットごと私の胴体を押し潰した。


「朝……。」

 気が付くと、私は我が家のベッドに寝ていた。私の傍らには、ベッドで妻が眠っていた。カーテン越しに見える外の景色は、まだ薄暗く、だんだんと白み始めている所であった。

「また……晴れか……。」

 幾度、私は同じ朝を繰り返したことであろうか。

「おはよう。」

「ああ、おはよう。」

 毎日の食卓で、妻と朝食を囲む。妻の傍らには、食事の手伝いをするAIアンドロイドが立っている。

「……。」

「ねえ、聞いてる?」

「あ、ああ。聞いてるよ。生態系園のことかな?」

「生態系園?う~ん。そうね、たまには、自然と触れ合うのも良いかもね。」

 それから後、妻は魔術師協会に対する不満を口にしていた。

「3.2.1。」

「何?」

「0。」

 午前7時13分丁度。突然の爆発が、キッチンに立っていたAIアンドロイドもろとも妻を爆殺した。

「朝か……。」

 私はベッドに寝ていた。外は薄暗かった。私の傍らには、ベッドで妻が眠っていた。私のこの無限のループは、妻あるいは私自身の死亡により、リセットされた。そして、日の出に目覚め、日没に終わる。妻と私の二人ともが無事であったとしても、日没になると、自動的にその日はリセットされた。そして、再び、その日の朝、日の出丁度の午前5時37分に目覚めた。

「おはよう。」

「ああ、おはよう。」

 何度目かのループの後、この体験が現実の現象だと信じざるを得なくなった私は、この無限に繰り返すループの意味を探ろうとした。

「私たちも、人間らしく生きないと。」

「そうだね……。」

 試行錯誤の末に爆発の原因が魔術師であることは突き止めた。そして、その人物の拘束も視野に入れて行動を起こしても見た。しかし、そのどれもがうまく行かず、おおかたは妻か私の死亡により幕を閉じた。例え、仮に魔術師の拘束がうまく行ったとしても、日没を迎えた私に明日がやって来るのかという保証もない。

「あ……。」

 考え事に呆けていて、いつのまにか、時刻は午前7時13分を迎えていた。そして、爆発に巻き込まれて、私は死亡し、再び、1時間36分前の日の出に目覚めた。

「……。」

 私は傍らに眠っている妻の顔を見つめた。この爆殺事件に関して、私はひとつの推論を持っていた。それは、おそらく、この魔術師による爆発は妻を狙ったものだということである。アバター空間上の教育機関で職務に従事する彼女は、強固な科学主義者であり、その立場上、度々、魔術師協会の立場を非難する言説を発してきていた。魔術が未知の科学分野であると認識されてもなお、従来の神秘的独善主義から離れようとしない魔術師協会に対する論説が彼女の立場上の論点であった。魔術師協会のその排他的位置こそが、魔術の真の発展を妨げていると、妻はよく言っていた。

「おはよう。」

「ああ、おはよう。」

「どうかした。顔色が悪いわよ。悪い夢でも見たの?」

「え……?」

 私は洗面所の鏡を覗き込んだ。本来、ループとともに、身体の傷や疲労、その他も含めて、何事もなかったかのように元通りになっていた。ただひとつ、記憶だけが夢のように頭に残っていた。そして、それは既視感とともに、私に未来を予想させた。

「あれは見つかったのかしらね。」

「え……。なにが?」

「猿。」

「猿……。」

 ひと月ほどから、市街地区で目撃されていた猿のことであった。

「何で、急に猿のことなんか……?」

「あなたが言ったんじゃない。」

 猿の話。そういえば、この無限に繰り返す朝の食卓の中で、そのような話題を話したこともあったかもしれない。

「猿なんかねえ……。何で、こんな街の中に来るのかしら……。」

 現在時刻は7時02分であった。後、11分で爆発に巻き込まれて、妻は死んでしまう。そして、私もまた、妻と同時か、あるいはその直後に死亡するか、リセットされる。

「猿か……。」

「何?」

「君は猿を見たことがある?」

「子どもの頃、生態系園で見たことがあると思うけれど……なぜ?」

 現在時刻は7時05分になった。

「野生の猿は見たことがない?」

「ええ。だけど、それは、あなたもでしょう。」

「なら、見に行こうか。」

「え……?」

 私は物置に向かった。

「行こう。」

「ちょっと、何……?」

「physical expansion 10x。」

「身体拡張十倍に合わせました。拡張機能使用時及び使用後の過度の身体的負担に関しては、当社は一切、責任を負いませんので、ご了承下さい。」

 現在時刻は7時12分になっていた。

「きゃあ、何!?」

 妻を抱えて、我が家を飛び出すのと同時に、私たちが今までいた部屋は爆発により破壊された。


 猿という存在が私にとって、何を意味するものであるのかは分からない。あるのは、ただ、猿まねという、人間の真似をしても、決して、人間には及ばない滑稽な存在としての空想イメージしかない。一体、その空想が、いつ、どこで、私の潜在意識に刷り込み(インプット)されたのだろうか。おそらく、それは、私が、まだ幼く、物心の付いていない時に見た絵本の影響なのであろう。

「ちょっと、止まってよ!!」

 私の両腕に、妻は抱えられていた。我が家を出て、数分経つが、今の所、新たな攻撃は来ていなかった。それでも、これまでの経験上、未だ私たちは、相手の攻撃圏内にいるはずであった。

「ごめん。まだ危険だから。もう少し辛抱して欲しい。」

「……。分かったわ。」

 その後、妻は沈黙した。私の両腕に抱えられた妻は、どこか子どものようであった。

「ひとつだけいい?」

「うん。」

「助けてくれたんだよね……?」

「うん。」

 自己活性型有機物体製道路ロンサオム(Road Made of Self-Activating Organic Material)の上を平均時速40km/hの速度で駆けていた私は、妻の質問に一言、そう呟いた。

「ありがとう。」

「……。」

 それから、また、妻は無言で、私の両腕に抱かれていた。私も、また無言であった。今まで、幾度となく繰り返して来たこの日の中で、何度、私は妻の死を目にして来ただろうか。それは、およそ、私のリセットと同義ではあるのだが、そんな彼女の死を目の当たりにしていて、私は思っていた程、驚きも悲しみもなかったことに驚かされた。そして、爆発、あるいは、無限に続く生死ループの原因が、妻に関係していることを悟ってからは、彼女に対して、憎悪や嫌悪を抱いていた。そのような無力感の中で、数え覚えていない程、私は妻を見殺しにした。

「私、あなたに嫌われているかと思ってた。」

「そうか、ごめんな。」

「ううん。謝らないで、私が悪いんだから。」

「……。」

 妻のその言葉は、何故か私の感情に重くのしかかっていくような気がした。一方で、自宅待機勧告のせいか、市街地区には人の姿がなかった。あるのは、おおぜいのアバターの姿だけであった。

「どこへ行くの?」

「うん。そうだな。山間部の方へ行ってみようか。」

 遠くに薄く、山の端が見えていた。


 山が近づくにつれて、どうしてか、アバターの姿を見かけることも多くなって行った。

「きっと捜索活動中のアバターなんだろう。」

 妻にはそう答える私の心中は実際、ひとつの疑念を抱いていた。本来、市街地区に出没した猿の捜索活動は街中で行われるはずであり、元々、野生の猿が生息している山間部に、これほどの数のアバターが訪れることがあるはずはなかった。

「あ、あれ……。」

 妻の声で私は歩みを止めた。妻が指差す方向には、山間の道路を一匹の猿が四つ足を使って歩いていた。

「始めて見たけれど、何の変哲もないよ。」

「ほら、また。」

 妻に人間らしくないと言われてしまう。しかし、道路を歩く野生の猿はアバター空間上で見る猿と何も変わっている所はなく、ただ、それが空気の間を四つ足で歩いているに過ぎなかった。そして、私は、その時、初めて、私が抱いていた空想の猿と実際にいる現実の猿が別々の異なる存在であるということに、改めて気付かされた。

「見て、もう一匹いる。」

 妻が指差した先には、猿がもう一匹、歩いていた。

「あれ、本当に猿かな……?」

「どういうこと?」

 道路の脇にある斜面から降りてくるその猿は、先ほどの猿と同じく、四つ足で歩いていた。その点では何も変わることのない猿なのであるが、しかし、その風貌というか、存在そのものというか、それが、その猿は異なっていた。

「なんか、気持ち悪いな。」

 異様な薄気味悪さが、私を覆っていた。それは、私が初めて感じる人間らしさであったのかもしれない。一方、妻は何も感じていないようであった。けれども、私の目からは、その猿は、本当の猿。つまり、私の空想の中に存在する猿そのもののように思えた。悪知恵で、ずる賢く、邪悪な、猿まねをする存在。それが、もはや、猿であると言えるのだろうか。おそらく、言えないだろう。それは、すなわち、何かが猿のまねをした生物であり、猿の皮を被った何かである。そして、その何か、言い換えれば、本質。その猿が何からできているのか、その何かが、一体、何であるのかは、この時の私では、まだ理解することができなかった。

「そこで、何をしている。」

 突然、怒鳴り声が聞こえた。

「早く、ここから立ち去りなさい。」

 声の主は異様な風貌の中年男性であった。彼は山人の格好をして、髪はなく、その代わり、十分な髭を垂らしていた。

「この山の地主ではないかしら。」

 私の両腕の中で、妻が小声を発した。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

「何!?」

 どこから湧いてきたのか、いつの間にか、私たちは猿の群れに取り囲まれていた。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ……。」

 私たちを囲む猿の数は、次第に増えていき、今や何十匹ともなろう猿たちが、一斉に私たちに向かって喚き、罵っているように聞こえた。

「こっちへ来なさい。」

 山人の男は、私の身体を引き寄せた。その時、身体拡張ユニットを三倍の補正で装着していた私は、得も言われぬ力に引き寄せられるように感じた。

「散れ、こいつら!」

 山人は鉈を振り回して、猿の群れの一画を退けると、その両腕に抱えた妻ごと、私の身体を連れて行った。


「あんたら、一体、何しに来たのかね。」

 道路から少し離れた川の近くに家屋が建っており、そこが山人の住まいであった。私たちはそこに連れて行かれた。

「ここは一般人が来る所じゃねえ。」

「あなたは行政技師の方なのでしょうか?」

「そんなんじゃねえけどもさ……。」

 妻の質問に男は狼狽するかの様子であった。

「日が暮れると、ここら辺は、皆、猿の群れの縄張りん中だ。早く、帰んな。」

 時刻は午前9:57分であった。

「って言っても、もうすぐ日が暮れるか……。」

「そんなことはありませんよ。」

「山の日暮れは、街ん中より早いんだよ。」

「まだ午前中ですから。」

「はあ?」

 何を言っているのかという顔を山人はしていた。しかし、それは私の方であった。心のどこかで私はこの男はある種の変人であると思っていた。その類の人物は、私たちの理解する世界とは、別の世界にいるのであり、頓知気な発言や意思疎通がちぐはぐになるのは多々あることを私は承知していた。おそらく、山住まいのこの中年男性は、長いこと山間部に居続けているせいで、時間の感覚がおかしくなっているのだろうと思った。

「外、見てみろ。」

 外は、太陽が西から照っていた。間違っていたのは私の方であった。

「明日の朝まで、いても構やしねえ。が、無理強いはしねえ。」

 もとより、私に明日が来るはずもない。日が沈めば、自動的に今日の朝に戻ることになる。それに帰る場所も、私にはなかった。そして、そのまま、ぐだぐだと時間を過ごし、気が付いたら日没を過ぎていた。無限に続く時の中で、私は初めて夜を迎えた。


 山間部の小屋では、虫の声が聞こえた。今まで、無限に続いていた昼間には聞くことのできないその涼やかな鳴き音に、しばし、私は、時間も輪廻の悩みも忘れて、平安の境地を味わっていた。

「ねえ。」

「何?」

 所々、ささくれ立った畳の上に、私が寝そべり、その横に妻が寝ていた。六畳程度の部屋の隅には、身体から外した身体拡張ユニットが脱ぎ捨てられていた。

「誰か外に出て行ったみたい。」

「家主かな。」

 現在時刻は分からない。おそらく、妻は疲れていたのだろうが、その一方で、突然の襲撃事件に興奮して、眠れなかったのだと思われた。そのように曖昧に私が言うのも、何度も繰り返された輪廻ループで、私自身が、疲労や感情というものに対して、無関心になりつついたからである。そうとは知らず、そのような半ば無力感に支配されかけた私を、妻は、このような状況にあっても、冷静でいられる頼りになる夫として見ているかのようであった。

「ちょっと見てくるよ。」

 妻とは異なる理由で眠れない私は、一旦、その場を離れることにした。寝床を這い出し、古めかしいガラス障子を開けて、廊下に出ると、月明かりに照らされて、納戸の隅にある裏口の扉が、少し開いているのが目に付いた。

「おや……?」

 裏口を出るとき、壁に掛かっていた鉈がなくなっているのに気付いた。外に出ると、虫の声は、いっそう激しく合奏をしていた。裏口から続く道は、雑木林に挟まれた一本道で、月明かりを頼りにしながら、私はその道のりを、ゆったりと歩いて行った。

「誰だ!?」

 五分くらいは歩いただろうか。そこで、私はあの山人に出会った。驚きの声とともに、こちらを振り返った山人は、一瞬ではあったが、とても、恐ろしい顔をして見えた。

「何だ、あんたか。」

「何をやっているんです……?」

 辺りの光景は、おぞましいものであった。山人の周りには、血の臭いに塗れた猿の死骸が少なくとも五匹はあった。そして、それは、山人の持つ血に塗れた鉈によるものであると、即座に私は思った。

「あんたには関係ない。」

 山人は冷淡であった。

「さっさと帰ってくれ。」

 山人が何を考えているのかは検討もつかない。この時点での私は、彼のことをただの変人であると理解していた。山人の剣幕に取り付く島もなく、元来た道を私は引き返した。

「いない……?」

 家屋内の寝床に妻の姿はなかった。手洗いにでも行ったのかと思って、数分間、待ったが、何の音沙汰もなかった。そして、また、私は来た道を引き返して、山人の所に向かった。

「ちっ。猿共の仕業だ。」

 今度は一本道の途中で、山人と出くわした。

「猿が妻を攫ったと言うのですか?」

「他に誰がいる?」

 山人の言うことは、荒唐無稽に、私には聞こえた。それに、妻が消えた理由は、昼間の事件と同じであると私は思った。

「見てみろ。」

「獣の毛?」

「猿の毛だよ。」

 私と妻が寝ていた部屋には、出たときにはなかった獣の毛のようなものが散らばっていた。

「猿が人を攫う話は、よくある。」

「とにかく探します。」

 猿の話は、私は半信半疑であった。とにもかくにも、理由はどうであれ、妻を探すことが先決であると私は思った。

「何で、そんなのを着けて行く?」

 身体拡張ユニットを着用する私に、山人は言った。

「念のためです。」

「……。」

 そう答えた私に山人は無言でいた。


 家屋の周辺を私は探した。身体拡張は三倍の補正にしていた。何故か、山人は、私の後ろを数歩、離れて付いて来ていた。

「うわ!?」

 突然、炎が煌めいた。暗闇の中、木の傍らに人影が見えた。それを昼間の魔術師だと私は思った。

「(今、死んだらどうなるのだろうか……。)」

 そのような考えが、頭をよぎった。無限のループから抜け出せた今の私は死ぬことがあるのだろうか。そのようなことを考えていると、私の頬を掠めて、空気が切れた。

「ぎゃあ!!」

 山人の投げた鉈が人影を貫いた。

「何てことをするんですか!?」

 人が死んだと思った。

「よく見てみろ、猿だよ。」

 すたすたと歩いて来た山人は、私を通り越すと、落ちていた鉈を拾った。その先にしがみ付いていたのは、頭を割られた猿の死骸であった。

「猿?」

「ここら辺の猿は悪戯をする。」

 死骸を踏み付けて、鉈を外すと、今度は、山人が先を進んで行った。

「(猿が魔術を使う……?)」

 そのような話は初めてである。どこか辺境の土地であるならば、そのようなお伽話もあるのかもしれない。しかし、市街地区から半日足らずで来られる山間部に、魔術を使う猿がいるとは思えなかった。

「こりゃあ、猿の巣に連れてかれたかも知れん。」

 しばらく、山林を歩いても妻の形跡は見つからなかった。

「猿に巣があるんですか?」

「ああ。ここからちょっと登った先のやしろが、奴らのねぐらになってるんだよ。」

「行ってみましょう。」

「本当は夜が明けてからの方がいいんだがなあ。」

 山人は、私の全身を眺めた。それは身体拡張ユニットに覆われた機械そのものであった。

「そんなもん役に立たんぞ。」

「は?」

 小声で山人は何か言ったようであったが、私には、よく聞き取れなかった。

「まあ、いいが、これを持っとけ。」

 懐から山人が取り出したのは、刃渡り10cm程の小刀であった。私に、彼はそれを手渡した。

「自分の身は自分で守れよ。」

 私は山人の言葉の意味を、この後知ることになる。私たち二人が相手にするのは、猿であるが、本当は何か他の実体のような気がした。それは、昼間に見た得体の知れない猿の皮を着た別の存在に迫るもののように思えた。

「重いだろ。」

「いえ。」

 私たちは斜面を登っていた。身体拡張三倍の補正はその40度はあろうかという傾斜角も、難なく私に登ることを可能にしていた。一方の山人も、慣れたもので、同じ斜面を羚羊かもしかか何かのように、ひょいひょいと登って行った。

「おい!!」

 山人の叫び声が聞こえた。その時、私が見た光景は、斜面を岩石が転がり落ちて来る景色であった。そして、その大岩は、真っ直ぐに私の身体に直撃し、黒い暗闇の底へと、私を呑み込んで行った。

「あっ……。」

「どうかした?」

 私が目覚めたのは、妻の傍らであった。どうやら、ここは山人の小屋の中のようであった。再び、ループが始まった。今度の開始地点は、私が山人の小屋を出る間際であった。

「誰か外に出て行ったみたい。」

「家主かな。」

 休む間もなく、新たな輪廻が開始された。今度の私は、外に出て行くことはなく、そのまま寝床で過ごした。


「……。」

 妻も私も無言のまま、時が過ぎた。

「ガタッ。」

「戻って来たのかしら。」

 物音を聞いた妻が、独り言のように囁いた。

「ガタッ。ガタッ。ガタッ。」

「いや。様子がおかしい。」

 物音は連続していた。真実を確かめるべく、私は寝床を抜けて、身体拡張ユニットを着ると、裏口へ向かった。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 裏口に向かう途中で、私が出くわしたのは猿たちであった。それは見た所十匹はおり、それぞれが廊下を埋め尽くしていた。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 私を認識すると、一斉に猿たちは襲い掛かって来た。

「くっ……。」

 猿たち一匹一匹の腕力は、とても強かった。身体拡張に三倍の補正を掛けている私であっても、群れで身体中によじ登ってくる彼らを防ぐことは難しかった。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

「異常を感知しました。強制終了します。」

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 板床に仰向けに倒れる私の身体を猿の群れが覆っていった。彼らは歯であるいは爪で、私から身体拡張ユニットを引き剥がしては破壊した。

「きゃあ!!」

 猿の毛並みが視界を覆う中で、妻の叫び声が聞こえた。

「ぎゃあぎゃあ。」

「助けて!!」

「ぎゃあぎゃあ。」

 彼女の叫び声を子守唄にして、私は目を閉じた。やがて、猿の歯か爪が私の喉笛を引き裂くと、生温かい血液が私の顔に触れる代わりに、私の身体からは体温が奪われて、気を失った。そして、すぐ次の瞬間に気が付くと、私は寝床で寝ていた。

「誰か外に出て行ったみたい。」

「そう。」

 妻の囁きに簡単に返事をした後、そのまま、寝床で私は考えを巡らした。

「あなた!!」

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 その間も、時が経つと猿たちが入って来て、何度も私は殺された。それでも、記憶だけが転生ループし続けながら、無限に私は考えを続けた。

「ねえ、助けて!!」

 第一の輪廻ループの起点から脱して、どうやら完全に、私は第二の起点から輪廻の繰り返しを開始したようであった。何故、起点が進行したのかその理由は分からなかった。そして、この輪廻の目的がどこにあるのかも分からなかった。ただ確かなのは、今、寝床に猿たちが侵入して来て、私は殺されるが、妻はどこかに攫われて行くことであった。それは、幾度、輪廻を繰り返しても変わらなかった。

「こりゃあ、猿の巣に連れてかれたかも知れん。」

 何度、繰り返しても、私一人では猿の群れには敵わないと悟った私は、やむを得ず、最初に開始した経路ルートで、山人に協力を仰ぎ、彼とともに、猿の巣を目指すことにした。

「ここから少し登った所に廃れた社がある。」

「そこが猿たちのねぐらですね。」

「……そうだ。」

 山人と私は山の中腹を目指した。


「あんた、何か変わったか?」

「え?」

 二人で道中を歩く途中、急に山人が声を掛けて来た。

「まあいい。何でもない。」

 山人と初めて出会った時から、彼に対して私は妙な感覚を感じていた。それは、どこか胡散臭いと言うか、奇妙な雰囲気を纏っている感じであった。初対面では、内心ギョッとするようなその雰囲気を、私は、ただ一言、変人という言葉で表現していたが、その一方で、何か深いものを彼の存在の中に覚えていた。

「ぎゃあ!!」

「……!?」

 山人が鉈を投げて、それが猿に命中した。

「猿だよ。」

「猿ですか……。」

 前方の地面に落ちた猿の死骸の所へと、山人が鉈を拾いに行く。前回の輪廻では、山人が猿に気が付くのは、炎が上がってからであった。

「どうして分かったんですか?」

「あんた気付いてただろ。」

 結論を述べると、この後、幾度か同じ場面を輪廻したが、そのいずれにしても、山人は私に先んじて、猿の存在に気が付くことができていた。

「あんたの気配で分かったよ。」

 山人はそれを気配と呼んでいた。無論、輪廻により、私も、ここで猿に出くわすことは知識として知っていた。しかし、どの輪廻ループにおいても、山人は、猿の存在を認識しようとする私の些細な挙動を事前に察知して、私より先に猿を見つけた。それを彼は気配を感じたと言っていたが、とうとう私にはその意味する内容を理解することができなかった。


「おい。」

 何度目かの輪廻で、山人とともに私は、山の斜面を登りきり、中腹にある開けた平地に出ることができた。

「伏せろ。」

 強引に山人が、拡張ユニットごと私の身体を頭から地面に押さえつけた。山人の力に、ぐいっと押された私は不意にではあったが、その得体の知れない力に抵抗することもできずに、頭から地面に這いつくばることになった。

「猿共だ。」

 私は、暗がりに目を凝らせて見た。身体拡張ユニットの暗視装置越しに見る景色は、その不気味な光景を、私の両目に向かって、じっと刻み付けた。

「あ、あれ……。」

 廃れ、寂れ、崩れかけた社殿の屋根には蔦が絡まり合うとともに無数の猿が集まり、話をしているのか、やたら活発に、手足を伸ばし、互いに触れ合い、戯れ合っていた。そして、また、社殿の周りの地面の上にも、数えられない程に猿が集まり、その毛で草の生えている地面を覆い尽くしていた。

「あの野郎。いやがった。」

 突然、山人が怒声を上げて立ち上がった。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

「邪魔だ!!」

 山人は鉈を振り回し、猿の中に飛び込んで行くと、手始めに、そこら辺にいた猿を二、三匹、打ち殺した。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

「どけ!!」

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 けたたましく、猿たちの騒ぎ声が耳に入り、私の鼓膜をつんざいた。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

「この……!」

 山人の姿が猿の毛と同化して行くのを、何もすることもできずに私は、ぼうっと眺めていた。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 やがて、猿の群れは私に気が付くと、その悪魔のような叫び声を上げながら、渦となり、私を呑み込んでいった。

「ねえ。」

「あ……。」

「誰か外に出て行ったみたい。」

「猿かな。」

「猿?」

 新しい輪廻が始まった後も、しばらく私は、あの奇怪な出来事の印象が脳内に残り、まるで、今も目の前に起きていかの如く感じ、呆けていた。

「何が起こったんだ……。」

「どうかしたの?」

 単純に、あの猿の海が瞼の裏から離れないのと、突然の山人の理解しがたい行動が私の頭を混乱させていた。いつのまにか、私の思考と理性は猿の群れに飲み込まれていた。

「ああ……。」

「どうしたの、ねえ?」

 無限に近い、今までの輪廻の記憶が、とめどなく、私という一個の人格を飲み込み、それまで、防いでいた防波堤を越えて、私を破壊した。

「ねえ、大丈夫?」

「うるさい!!黙れ!!」

「え……。」

 妻のはっとする姿が確かに見えた気がした。

「おまえが、おまえが、余計なことをしなければ、こんなことには……。」

「……。」

 私は、両手でガタガタと私が妻の身体を揺らしているのが見えた。

「おまえが、おまえが……。」

「や…め…て……。」

 私の視界は黒く遮蔽されていて、そこに妻の姿は見えなかった。私という人格の崩壊は、事態の行き詰まりを表していた。無限に繰り返されるという条件の中で、失敗を究明し、物事を解決に導くべく、何度も、何度も、思考を巡らし、再試行トライアルしてきた。しかし、ここに来て、私は、試行錯誤とその思考の過程という物の限界に直面し、もうどうしていいのかさえも分からず、状況を理解することさえもできず、それらを放棄し、両手で妻を掴んでいた。簡単に言うとそれは、妻に対する私の八つ当たりであった。

「ねえ。誰か外に出て行ったみたい。」

 その後のことはよく覚えていない。ただ、妻の体温が、私の両手の平にこびり付いている気がした。そして、おそらくという範囲で、私は前の輪廻で、私がしたことを、答えの出ない妄想のように、思いを巡らし、想像することができた。


 それから、しばらくは、どこからともなく現れる所在ない不快感と底知れぬ憎悪、それに抗おうとするかのように平安を求める心の機能が相克しながら、私は、自分自身を捨て置いた廃人のようにあった。

「ねえ。誰か外に出て行ったみたい。」

 突然、私は走り出した。狂気の内に自由を求め、思うままに暗闇を駆けた。何も考えまいと、ひたすらに駆けては、やがて、崖から足を滑らせて落ちた。

「ねえ。誰か外に出て行ったみたい。」

 それでも気が付くと、私の傍らで、いつも妻は伏していた。一層、その恐怖と呪いが私を狂気に引きずり込んでいた。私は背筋に恐怖と寒気を感じていた。

「あんた、何か変わったか?」

「は……?」

 いつのことであっただろうか。ある輪廻の時、私は小刀を持ち、山人とともに、暗い林の中で、猿の頭を砕いていた。

「もうすぐ、夜明けだ。」

 山人と私が打ち砕いた猿の数は知れなかった。私の両手は血に塗れ、周囲には、頭や胸に致命傷を負い、無残にも、体の一部を散らばらせた猿の遺体が数え切れず散乱していた。あいにく、そこは山の中腹にあるあの廃れた社ではなかった。今頃、妻は寝床から猿に攫われて、猿の巣である廃社にいるのだろう。

「あ……。」

「どうした?」

「これ猿ですよね?」

「猿だ。」

 そのとき、私がふと気付いたことは、身体拡張ユニットも着けず、たった小刀一本で、何故か私があの凶暴な猿を死に追い遣ることができているということであった。それと同様に、以前から、当たり前のように、山人が鉈で猿を殺していたということにも、今さらながら気が付くことができた。

「これは、本当に猿?」

「……。」

 私の質問に、しばらく、山人は黙っていた。

「あんたがどう思おうが勝手だが、ここまで手伝ってくれた礼に教えてやるよ。」

 鉈にこびり付いた血糊が山人の掌に吸い取られていった。

「こいつらは邪神なんだ。」

「邪神……?」

「正確には、その遣いか。」

「邪神の遣い……。」

「魔神とも言うがな。その眷属だ。」

「それで、こんなことを……?」

 いつのまにか山人は地面に座っていた。その辺りは、依然、猿の血肉に囲まれていた。

「最初は一匹だった。それが、どんどん、他の猿を巻き込んで、今じゃあ、この有様だ。」

 山人が異常な妄想を語っている可能性を私は考慮しなかった訳ではないが、このとき、私自身も、また、この異常な状況下で正常な判断能力を抱いていたとは言えなかった。

「猿の中で一匹だけ、他とは違うやつがいる。そいつが元凶だ。俺はそいつを殺す為に、ここにいる。あとは、自然な間引きだ。」

 山人の言う自然という意味が、私はよく分からなかった。だが、このとき、初めて、はっきりと、山人の目的が分かった。そして、それは私にとっての僥倖であり、救済のきっかけかあるいは、救済そのものであった。


 それは偶然であったのか、運命であったのか。無限に続く輪廻の中で、もし、そのとき私が、そのことに気が付かなければ、そのまま無限は機会チャンスではなく、地獄の呪いとして存在し、永遠に私はその牢獄に囚われ、彷徨い続けることになっていただろう。今、そのことを思うと、不意に寒気と得体の知れない恐怖に駆られる。それは、子どもの頃、眠りに就く前に感じた空恐ろしさと似ている。

「猿は、猿たちは、何をしようと……。何が目的として、いるんです?」

 朦朧の中から光明を頼りに這い出そうとしながら、必死に私は、山人に質問をした。

「猿は、猿共は……。」

「やつらの目的は魔神の復活だよ。」

 狂人のような目で問い掛ける私を尻目に、いともあっさりと、山人はその答えを教えてくれた。魔神は、欲望を根本とした願望に宿る存在であると、山人は言った。

「あなたがそう思えば、それはそうなる。」

「……。」

「魔神を復活させる呪文だよ。」

「あなたがそう思えば、それはそうなる。」

「あとは贄が必要だな。」

「贄。」

「生きた人間。生け贄だな。」

 山人が言った生け贄という言葉にも、私は合点がいったが、それよりも、その前に、山人が言った復活の呪文が、私の脳内に響いていた。それは共鳴であった。

「猿は、魔神は、どうすれば、倒せ……、殺すことができますか?」

「知らん。」

 唐突であった。今まで、感じていた山人との交流の軌跡が、突然、絶たれたように私は感じた。

「教えて下さい。猿、この輪廻ループを、終わり、絶ち、絶つ方法を、教えて。」

「人に頼るな。信じられるのは自分だけだ。答えなどないし、俺は知らん。神経を研ぎ澄ませろ。世界を感じろ。お前の周りは常に動いている。変化している。」

 私の持つ小刀は、力を入れられ、ぎゅっと握られていた。そして、それが山人の頸、目がけて振り下ろされた時、私の頸は、山人の鉈によって、難なく切り落とされていたし、力を込めて握っていた小刀も、すっと掌の力が抜けて開き、ぱたっと地面に落ちた。

「ねえ。誰か外に出て行ったみたい。」

 私は呆然としていた。

「……。」

 自然と身体の力は抜けていた。世の中に潜む分子、原子、素粒子が私の中で盛んに動いているのが分かった。

「……!」

 私の周りで起きる出来事は、すべて、煙のように曖昧な物となり、そのいずれもが、私も含めて浮遊し、散じていた。

「……!!」

 半ば夢現のようなそのままに、じっと私は動かなかった。しかし、私も現実も、すごいはやさで常に動き、変化していた。そして、無用に過ぎて行った何度目かの輪廻の末に、私の身体は四肢を動かし、その身を起こ始めた。

「助けて……!!」

 私の身体は軽かった。それと同時に、私は自分の身体がとても重く感じた。その二つは全く同じ源流にありながら、表出の違いによって、それぞれ異なる体感を私に覚えさせたのであった。まさに、それこそが入り口であった。

「……。」

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 私の隣には猿が一匹いた。私は身体拡張ユニットも着けず比喩的に丸裸の状態であった。その猿は私の顔に目がけて飛んできたが、私はそれを捉えることができた。というよりも猿が飛び掛かって来るのと、私が右手を突き出すのとは、ほとんど同時であった。そして、私が出した右手により、空中で猿は叩かれることになり、そのまま横に飛んで行った。


 その後も、私は幾度となく輪廻を繰り返していた。そして、何度も、何度も猿を相手に立ち会っていた。やがて、幾千万の末に、いつかしら、目を閉じていても、私は猿が飛び掛かって来るのが分かり、防ぐことができるようになっていた。

「ああ、このことか。」

 いつの時か、気配云々と言っていた山人の境地と同じものを私は感じていた。その時の私は、かつてのように目的達成の試行錯誤トライアンドエラーの為に輪廻を繰り返していたのではなく、ただ輪廻の中にいるだけの存在であり、その過程として輪廻は存在していた。

「彼はどこに……。」

 思い出したように、私は山人を探した。今、こうしてただの存在として輪廻を繰り返すようになり、分かったことが私にはあった。それは、無限に繰り返す輪廻の内においては、それらの道のりは常に、目的地となる同様の方向を向いて進むが、その中味は輪廻の度に全く異なるということであった。

「……。」

 繰り返す輪廻の中で起こる出来事は、まさに何事かに向かって進む列車のように、その通過点も終着駅も、景色も全く同じであり、ただ私はその列車に繰り返し乗する客員であるだけだと思っていた。しかし、その車両の中で、じっと止まり、観察してみると、同じ経路でも確かに、そこに流れる空気は変わっていたし、乗る度にそれは異なっていた。そして、それらを感じる私も、また、それに伴い、輪廻を繰り返すごとに変化した。この時、私が感じていた変化は、状況の変化ではなく、私自身の感性や記憶の変化であった。

「あんた、誰だ……。」

 時刻は、寝床から妻が猿に攫われている頃だろう。小屋の裏口を出た私は、林の中を通り、山人が猿を撃ち殺している所に出くわした。

「私を妻の所に連れて行って下さい。」

 変化は物事にではなく、私自身に起こっていた。それに輪廻も加味すると、見る者が見れば、それは短時間の局地的変化の極みであった。山人にとっては、夕方、保護した男が、ほんの数時間、見ない間に全くの別人のように変わってしまったように感じられたことだろう。山人は、その変化に分かることができる者であった。

「どこに連れて行けって?」

「猿の巣。魔神の下へ。」

「……。」

 山人は何も言わなかった。その代わりに、山人の振るう鉈が私を襲った。

「見えたのか?」

 山人の振るった鉈は宙を切り裂いただけであった。その時、既に、私は山人の間合いからは外に立っていた。

「ついて来い。追々、事情は聞く。」

 山人は私の先を歩いた。


 深夜の風は冷たく澄み、私の肌を打っていた。

「ここだ。」

 山の背の崖に着いた。道中、結局、山人は、私に何も尋ねることはなかった。途中に起こる猿の襲撃も、それは山人自らがそれに気付き、対処した。私はただ、突っ立っているだけであった。

「この坂の上に奴らの巣がある。」

 暗闇に山人の目が、ぎらぎらと光って見えた。山人と私は、いとも容易く崖を登った。私には、どこに足を踏み出せば良いのかが、既に身体が記憶していた。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 崖の上の廃社には猿たちがたむろしていた。私はそれらを見極めると、独りでその猿の群れの中に歩いて行った。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 いち早く私を見つけた一匹の猿が、私に向かって飛んで来たが、それが私の肌に触れることはなかった。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 異変を察知した猿たちが、順々に私目がけて飛んで来たが、そのどれもが、私に触れることはなく、後方へ飛んで行った。独り歩く私の周りには、夜の冷たい風が吹いているだけであった。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 やがて、猿は一斉に私に飛び掛かって来るようになった。私は、一番最初に見た山人の姿のように、雲の如く流れ込む猿の毛の海に飲み込まれて行った。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。ぎゃあ。」

 一瞬の間とともに、猿の血がその毛を濡らした。それは、私が持つ小刀の刃が噴き出させたものであった。強力な猿の膂力は、非力で丸裸な私の体を抑えつけることができなかった。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。」

 するすると、猿の山から私は体を抜け出させると、腕や足に食い付いている猿を一匹、一匹、小刀で刺し、あるいは、掌で握り、頸を絞めた。猿に噛まれた所は痛みも、流れる血の温かみも感じていた。それでも、私は、黙々と猿にとどめを刺し、飛んで来る猿を避け続けた。

「おい。あんた。」

 鉈を持った山人が私の傍らに駆けて来た時、呆然と、猿の死骸の山の中に私は立っていた。山人が言うには、かれこれ二時間近くも、猿を相手に私は立ち振る舞っていたということであった。そして、それを山人もまた、ただ呆然と眺めていたらしかった。

「大丈夫か。」

 山人のその労いの言葉は、私には何の意味も持たなかった。ここで私が過ごした二時間足らずの時と、猿の数は、それまで、膨大な時と猿を相手にしてきた私にとっては、そのほんの僅かな一部でしかなかった。繰り返す時は、今も過去も変わらず、そこにただ私は存在しているだけであり、そして、おそらく、それは未来にも変わらないことであるように思われた。

「これを持っていろ。」

 私が手にしていた小刀は、血と油の刃こぼれにより、その原形をとどめてはいなかった。その代わりに、山人は私に、自分が持っていた鉈を手渡した。

「先に俺が行く。」

 廃社の周りに猿の姿はなかった。残るは、その内部だけである。ぎいっと、山人が社の扉を開けると、社殿の床の中央に妻が横たわっていた。辺りにものの気配はなく、私が妻に近づくと、彼女はただ気を失っているだけであることが分かった。

「天井だ!!」

 私たちが入って来た社の扉から、すっと月明かりが照らしたかと思うと、すぐさまそれは消えた。再び、辺りが暗闇に閉ざされると、山人の叫び声が響いた。

「猿……。」

 天井から、どさっと落ちて来たそれは猿ではなかった。私が見たそれは何物でもないただの黒い塊であった。

「奴だ。魔神の遣いだ!!」

 山人のもとに最初に現れた猿。それが感染するかの如く周囲を巻き込み飲み込んでいった。

「斬れ、切れ、そいつを殺せ!!」

 黒い塊は何をするでもなく、ただ、どさっとそこに落ちているだけであった。到底、私には、それが猿には見えなかった。

「野郎。猿の野郎。殺してくれ。」

 おそらく、その黒い塊は、妻を連れて私がこの山間部にやって来た時に見かけたあの異様な薄気味悪さを伴った猿であり、私の空想上に存在する猿そのものであったのだろう。かつて、私はそれを猿の皮を被り、猿まねをした別の本質的存在として観察したが、それは今では、形のない黒い塊と認識していた。

「さよなら。」

 一言そう告げて、鉈で私はその黒い塊を断ち切った。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ……。」

 鋭いわめき声を立てて、無惨にも、為す術もなく、それは私に断ち切られた。その時、うっすらと私はその本質の正体に気が付くことができた。


「今日も晴れか。」

「おはよう。あなた。」

「ああ、おはよう。」

 あれから何事もなく、妻と私は街へ戻った。そこには、壊れたはずの我が家も、あの猿の騒ぎも、魔術の存在も、何もかもなくなって、そこに存在していた。

「近頃のあなた、変わったわね。」

「どのあたりがかな?」

「なんだか人間らしくなったみたい。」

「なんだよそれは。」

「ごめん。ほめ言葉よ。」

 新しい朝が来ていた。もう私は輪廻を繰り返すことはない。しかし、あるのはひとつだけ、幾らか先にある本当の死、そのものであった。


アーカイブ

2050年以後


ロボット、AI、アバター

 現実と仮想空間の両面において、人々は思考操作できるアバターを使用。自立型AI搭載のロボットも駆動している。また、アバターによる宇宙探査も進行している。


身体拡張ユニット

 作業用その他の場面において、家庭用、業務用、様々な型が販売、使用されている。出力は通常十倍から業務用では、少数ではあるが五十倍の品も使用されているらしい。


気候変動の枠組み

 海面推移による地形変化が深刻化しつつあったが、近年、二酸化炭素及び窒素固定技術の実用化により、各国は地球環境の再生化に目途を付け、その実現に取り組み始めた。それらと同時に、依然、気候変化による被害国への補償と支援も進められている。


魔術と科学

 世界の根本原理は不変。科学技術は誰にも万能の利益を与える。魔術は特別な存在にのみその施行が許され得る。魔術は科学の補助を受けて発展した。昔に言う超能力、オカルトの類の系譜を引く。一方で勘や熟練により習得される技能スキルは廃れつつある。魔術は科学の生み親、科学は魔術の育て親。

 

猿(魔神の使者)

 魔術師協会と軍を汚染。あなたがそう思えば、それはそうなる。欲望を根本とした願望に宿る存在であり、それは魔神の片破れである。


語り手の男

 一般市民。後に言われる『魔術師協会事件』始まりの一日を無限に繰り返している。その原因は、男の特殊能力であり、魔術であるが、男はそのことを知らない。


山人

 山間部で独り暮らす中年の男。特異な風貌をしており、人間の感覚、身体操作等、人間本来の自然感覚に訴える生活をしている。身体拡張ユニットやサイバネティックアバターを彼が使うと作動不良を起こしてしまう。昔は名のある人物であったが、今は、世を捨てて暮らしている。猿を狩って生活をしている。


魔術師協会事件

 魔術師協会全体を首謀者とする一連の破壊活動を言う。都市街地区※※において、※年※月※日、一般市民の住宅を爆発させる無差別殺人事件が起こる。被害者はその住宅に住む夫妻二人。その後も、各地で魔術師による無差別殺人事件が起こる。同時日、※※防衛隊基地において、一部隊員の反乱を伴った発砲乱射事件が起こる。やがて、その反乱は魔術師協会による破壊活動と収束し、散発的内乱に発展する。


無限ループの意味

 一般市民である語り手の男の無限ループは、日の出から日没、あるいは、死によりリセットされる。男は、その無限に繰り返す一日を牢獄に例えているが、それは、あくまで、彼の主観的な見方であり、客観的にそれが何を意味する現象なのかまでは理解するに至ってはいない。その認識が魔術の発生の発端であり、科学的な認識と相容れない所である。その点においては、欲望を根本とした願望に宿る魔神の存在と同じであり、一般的には、それらを妄想という単語で表している。

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