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渋谷區

作者: 佐潟

私は渋谷に行こうと思い立ちました。

渋谷に行けば、私は都会的な人間になれると信じていたからです。

私は珍しく髪を巻いておしゃれな服を着て、メイクにもいつにもまして時間をかけました。

渋谷という都会的な空間に行くためには、都会的な人間になる相応の支度をしなければならないと信じていたからです。


渋谷に着いて降り立ってみると、そこは都会でもなんでもなく血の池地獄そのものでした。

まず、渋谷には空が存在しませんでした。空の代わりに存在するのは、日が差し込まないただ赤黒いだけの暗い大気でした。

渋谷には建物らしい建物もありません。建物どころか人工物と思しきものも一切見当たりません。そこに無数にあるのは、私の背丈の数倍もの高さがあって血のような赤黒い色をした三角錐のような物体でした。三角錐の物体は乾いた泥のようなもので出来ているらしく、表面はまだらでゴツゴツとしていました。あるいは血が凝固したもので作られているのかもしれません。そんな三角錐があちらこちらの地面から生えていました。地面は三角錐よりはやや明るい赤色で、これは水分の多い泥のような物体で覆われているように見えました。

私は恐る恐る一歩を踏み出しました。足はグチョリと地面にやや沈み込むような感覚がするけれど、沼のように足を取られて動けなくなるということはなさそうでした。

そして私は足元に目を向けて重大な事実に気づきました。日が差さないので今まで気づかなかったけれど、よく見てみると地面には見渡す限り無数の人間が埋まっているのです。うつ伏せになって埋もれている人、仰向けになって口を開けている人などがあちらこちらにいました。皆して性別や年齢も分からないほどに赤い泥にまみれているので、人というよりは人型の物体、あるいは土人形かのような印象すら受けました。生きているのか死んでいるのかはよくわからないけれど、生気が感じられないので息絶えているのかもしれません。

渋谷とはなんて惨い場所なのでしょう。これほど多くの人間が息絶えて埋もれていて、あたり一面に屍の空気が漂っている。それでいて渋谷とは実際このような場所だという惨状は、都会を知らない他所者には知られていないということでしょうか。渋谷という大都会に憧れていた私は、渋谷がこのような血の池地獄だということはつゆ知らず足を踏み入れてしまいました。渋谷に足を踏み入れたが最後この空間を永久に脱出できないまま息絶えてしまうので、現実の渋谷の様相を外界に伝えられる人がいないということなのかもしれません。


さて、どうしよう。私もこの空間を脱出できずに死ぬ人間の一人になるかもしれない。けれど、何もしないのもむず痒いのでひとまず埋もれた人間の間をすり抜けるように歩いてみることにしました。グチョリ、グチョリと血の泥が音を立てるが歩けないことはありません。


「お母さん」


ふと、そんな声がしました。

気のせいでしょうか。


「お母さん」


いや、確かにそう聞こえます。

私は声がする方へと向かうことにしました。


「お母さん」


そこにはやはり人間が仰向けになって倒れていました。しかし、口から掠れた声を発しているから辛うじて生きているようです。そして黒々とした目で私を見つめて、ひたすらお母さんと言い続けています。どうやら先程から私の存在に気づいていたようです。


「……ああ、お母さんじゃ、ない」

その人間はそう呟きました。私の事を母親だと思っていたのでしょうか。死の瀬戸際になるとそんな幻覚を見るのかもしれません。

「……あの、あなた、私が今から、言う事を、私の母に伝えて、もらえませんか」

私は頷きました。知りもしないこの人の母親に実際に伝えられるかはともかくとして、あからさまに今にも息絶えそうなこの人が言う事は聞き届けなければいけないような気がしたのです。

「……あれだけ反対、していたのに、東京に出たい、なんて言ってしまったことを、すごく、すごく後悔しています。東京がこんな、場所とは知らなくて、渋谷も新宿も、人が生きる場所じゃ、ありません。私は、取り返しのつかない事を、してしまいました。もう、家には帰れません。今までのことは、本当に感謝しています。そう、母に伝えて下さい」

心なしか、最後の方は声を震わせて言っているようにも聞こえました。


「すいません、新宿というのはどこからどのように行けばいいんですか」

私はそう聞き返しました。渋谷も新宿も人が生きる場所じゃないというのなら、この人は新宿に足を踏み入れてから渋谷に来たということに違いないはずです。

「……新宿は、その穴を入った先です。どっちも渋谷區ですから。私はその、穴から来て、今、ここにいます。」

その人はそう答えて、指を差しました。そこには赤い地面にぽっかり空いた穴がありました。

「……あなたに、会えてよかった。人の温もりが、こんなに大切だなんて、これで、もう、いいんです。新宿に、行かれるつもりなら、お気をつけて」

私は頷いて頭を下げて、穴に飛び込みました。

穴は深い。どこまでも落ちてゆく感覚がします。いや、地面の中を落ちているのではなくて、いつのまにか何かの空間の中を落ちているようにも思えました。なんだかもう、よく分かりません。

暗がりだったのが少しずつ視界が白けてきました。光が差し込んできたのです。そしてそこには、青い空が広がっていることに気づきました。血の池地獄の渋谷とは正反対の、どこまでも突き抜けるような青さでした。


突如として、私は地面に叩きつけられました。しかしさほど痛くはありません。見てみると地面には砂が敷き詰められていました。そこはまさしく砂漠だったのです。ややなだらかな砂の丘陵が広がっていて平らではありませんが、とにかく一面がひたすら砂であることに変わりはありません。青空と砂しかない空間、これが新宿なのでしょうか。あの人が新宿も人が生きられる所ではないと言っていたけれど、砂漠で人が生きられないのも当然です。

新宿にたどり着いてしまった以上は仕方がないので、私は砂の中を歩くことにしました。


どれくらい歩いたでしょうか。砂しかない空間の中で特段考えることもないので、ひたすら無心で歩き続けていました。

遠くの方に何かが見えます。それは巨大な灰色の物体のようでした。前へと進むほどに灰色の物体は鮮明に見えるようになっていきました。どうやら灰色の石のようで、西洋風の墓石のような綺麗な直方体で地面に埋まりながらもその表面を地表に露出していました。よく見ると墓石の周囲には苔のような植物が生えています。新宿に来てから初めて有機的なものを目撃した瞬間でした。

石の間近に来てみると、石は私の身長と同じくらいの縦横の幅しかありません。その表面には漢字で何かが書かれています。


「至新宿

 遍在絶言里

 只遊歩回臥寝」


漢文でしょうか。無学な私にはよく分かりません。

ただ、新宿と書かれているのでやはりここが新宿と呼ばれる場所なのは間違いないようです。新宿もやはり渋谷と同じく、私が思い描いていたような都会の空間ではありませんでした。都会なんて言い伝えで噂されていただけのただの空想だったのでしょう。なんだか、身体から一気に活力が抜けていくような感覚がしました。謎の笑いすら込み上げてくるようでした。


ああ、ずっと歩いていたので疲れてしまいました。不思議と、まるで石が眠気を誘っているようにも感じられるのです。私は石を枕にして横たわりました。石なので固そうに思えるが意外にそのような感触はありません。

もう、このくらいにしておきましょう。

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