気がかりな噂
「ごめんなさい。アキラが外出していたことが、母に気づかれてしまって」
恐らくは、それが手軽な散歩などではないということも。本当のことが知れたなら、翔と会うことすら許されなくなるかもしれない。その危惧は一方で、時間稼ぎには格好の口実となった。
「ここは一旦、ほとぼりが冷めるのを待つべきでしょうね」
講義の終わりに母のことを伝えると、先生は溜息と共に肩を落とした。翔に伝えたいことが、今週も沢山あったのだろう。胸をなで下ろして先生を置き去りにすると、講義室の前で郁美が待っていた。
「愛紗、ちょっとちょっと」
手招きされるままに駆け寄ると、郁美はやにわに顔を背けた。
「郁美ー広野の実習、休講だってさー」
先に行っていた筈の英梨達が、引き返して来たらしい。私が手を振ろうとしたとき、多奈は不意に眉を上げた。私の後ろに、誰かいるのだろうか。私が振り返るより先に、郁美はやけに大きな声で応えた。
「昼前だし、どっか食べに行こうか」
せっかく出来た暇を、満喫しない手はない。私達はブティックやアトリエの立ち並ぶ駅前の通りに繰り出した。建物から伸びた枝は緑のアーケードを作り出し、オープンカフェには木漏れ日が踊っている。店の入り口に表示されるホップアップを見比べながら、私達はのんびり店を選んだ。
「ねえ、あのイタリアン、値段のわりに美味しいって」
私達はカルボナーラとシーフードのピッツァを選択し、それを四人で取り分けた。英梨の見立ては、大抵の場合正しい。肉厚のホタテは生え肉とは思えないくらいジューシーだし、設定されている背景音楽も中々だ。ホップアップの点数が六点しかなかったけれど、今時の若者は人間のウェイターなんて最初から求めていない。
「私達が求めてるのは、美味しいシーフードなんだよ、蟹君」
郁美がにやりと笑いかけると、給仕用のオートアニマは真顔のまま、平たい顎を打ち鳴らした。こんなに人工的な生き物が許されるのに、なぜ先生の実験が危険視されたのだろうか。私のような素人には、勘ぐることさえ難しい。
みんなで春夏のコレクションを眺めて自分達のお気に入りを探す傍ら、私は多奈が何を見たのか、考えを巡らせていた。暫く見かけていなかった友達か、それとも目の覚めるようなイケメンか。藪蛇を突きそうで聞きあぐねていると、そのうちうっかり目が合ってしまった。
「ねえ、愛紗。あんたひょっとしてさ、薬Tと付き合ってんの?」
他でもない、私のことだった。隠れて話を進めているつもりでいたのは、どうやら私だけだったらしい。二人きりで話していたり研究室に通っているのは、とうの昔に知れ渡っていた。
「まさか。どこからそんな話が湧いてきたの?」
とは言ってみたものの、翔のことを話すわけにもいかない。逃げ場を失った私に、郁美が助け船を出してくれた。
「ああ、先生にご執心なのは、この子の親戚なんだわ。今は足を怪我してるから、愛紗が送り迎えしてるってだけ」
なんだあ。多奈と英梨は肩を落とし、口々に文句を垂れた。
「これで漸く、愛紗にも春が来たと思ったのに」
冷やかしながら、英梨はピッツァを少しかじった。二人にはただのゴシップでも、私達には命取りになる。溜息をぐっとこらえ、私はきょとんとした顔で多奈に聞き返した。
「それにしても、そんなに人気あるの? あの先生」
講義の時と違って、研究室での先生は自分勝手でいい加減で、まるきり子供としか言いようがない。外面に騙されてファンになる子がいるというだけで物議を醸す程度に、それはそれは子供なのである。
「まあ、そこそこイケメンだし、先生の中じゃ若い方だしね」
狙ってる子も、結構いるらしいよ。多奈は人差し指を立てて、事情通ぶってみせた。その子達にこそ、先生の正体を見せてあげたいものだ。溜息を燻らせながら、私は軒先の枝を見上げた。
「知らぬが華って、本当だわ」
本人たちの気は知れないけれども、先生に少なからずファンがいるということだけは覚えておく価値がある。人に目を付けられないためにも、人前で先生と話すことはできるだけ避けるべきなのだろう。