母のお小言
打ち合わせを重ねる度、先生は必ず設計を前進させてきた。骨格の構造、筋肉の神経支配、皮膜の中に張り巡らされた靭帯。先生が引き出しから次々取り出す解決策は、私の目にも鮮やかだ。週に一回の打ち合わせは翔の数少ない楽しみの一つとなり、今では私ではなく、翔ばかりが先生と話している。
無謀に思われたこの実験は、先生にとって解き方の分かったパズルに過ぎないのかもしれない。先生はどこを目指し、私達を何が待ち受けているのだろう。立ち止まって考える間もなく、全てが順調に進んでゆく。先生と一緒になって実験にのめり込む翔が、私の目にはひどく危うげに映った。
打ち合わせがあった日の、夜半前のことだった。寝る前に歯を磨こうと、洗面所に向かう私を母が後ろから呼び止めたのは。
「昼間、書類を取りに帰ってきた時、アキラが部屋にいなかったようだけれど」
私以外に翔を連れ出す者はいないし、ましてやあの子が一人で抜けだすようなことなど絶対にありえない。背骨に刺さった無数の針が、冷たく私を責め立てた。言い逃れるどころか、振り返えるだけで痛手を負ってしまう程に。
「愛紗、少しは私の立場も考えて頂戴」
それで、どこへ行ったの? 私の返事を待たず、ため息交じりに母は尋ねた。どこにも、と答えることはできない。けれども素直に答えることは、それより酷い仕打ちを招くだろう。
「手毬池……少しは外の空気を吸わせたくて」
こんな時に限って、情けない声しか出てこない。こんなたどたどしい嘘をついたところで、疑って下さいと言っているようなものだ。閉めきった窓に打ち寄せ、容赦ない静けさを洗う雨の音。窓に映った母の姿を恐る恐る覗うと、そこには鋭く、冷たい眼差しがあった。
「そう、それならいいけど。とにかく、ひと気の多いところに連れ出すのはよして。あなたの顔だって、全く知られていないわけじゃないんだから」
分かってる。私は振り返らないまま、ぎこちない足取りで歩き出した。洗面所がもっと遠ければ、このまま歩いてゆけるというのに。ものの数秒で辿りついてしまい、漸く後ろを振り返ったときには、廊下に母の影はなく電灯の黄色い灯りが雨音に震えているだけだった。