先生の魔法
先生は、一体どんな魔法を使ったのだろうか。絵に描いたドラゴンが、いつの間にか現実の重みを纏っている。コーヒーの黒が口元に近づき、唇の薄紅がカップの白に隠れたとき、俄かに胸が締め付けられた。
「逆に、そのごく一部を伝えることが出来れば、自分の身体と遜色なく実験体を動かすことが可能です」
残りの大部分は、実験体に押し付けて、ね。説明が終わると、先生は再びコーヒーを口に運んだ。腸から湧き上がり、胸を炙る熱と渇き。私は自分のコーヒーを睨み、膝の上で拳を握った。
「同期中に、アキラの身体も実験体と同じ動きをする恐れはありませんか?」
こんなに冷たく鋭い声が、私の喉から出てくるものなのか。強張る私をよそに、先生はのんびりとコーヒーを味わっている。ゆっくりと香りを確かめる仕草の奥に、何を見つけたのだろう。苦いままのコーヒーに、翔は恐る恐る口をつけた。
「実験体からアキラ君の運動前野に増幅したフィードバックを送り、本体の運動を抑制します」
表示された半球の割れ目から、前方に向かって青い矢印が伸びてゆく。運動前野に着地した矢印は細枝に分かれ、小脳や大脳基底核に広がった。
「これは過去の実験でも機能が実証されている手法ですので、心配はありません」
翔がカップをソーサーに戻す、ぎこちない音が聞こえた。
「先生、それで、体の方はどうするか決まりましたか? 僕は緑よりも、青の方が好きなんだけれども……」
幼心に浮かんだ、鮮やかでまっさらな夢の輪郭。他人の妄執と呪われた技術で描くことを選んだのは、他ならないこの私だ。
「鱗の色素は自由に設定できますよ。色素を使わず、組織の構造によって偏光を生じさせ色を与えることもできます。モルフォ蝶のようにね」
同じ物が見えていると、互いに思い込んでいる。同じ夢を二人が見つめる危うさに目を凝らしても、冷たい地平を遮るものは何一つ見当たらない。
「ですが……腕はどうなさるおつもりですか?腕と翼は相同器官です。両方を備えた動物のサンプルはありませんよ」
肩関節や周囲の筋肉を同時に動かして初めて、腕なり翼なりが自由に動かせるのだ。先生といえども、腕は妥協せざるをえないだろう。
「そうですね。脊椎動物の一般的なボディプランに倣うなら、翼と後脚を備えた、翼竜とでもいうべき生物を作るのが順当です……」
思いの外、先生はすんなりと譲った。実験体が見慣れた姿をとるだけで、多少は地に足がついたつもりにはなれる。けれどもそこで溜息をついたのは、全くの早合点だった。
「しかし、龍というからには、アキラ君、たとえティラノサウルス程度にせよ、前脚が付いているべきではありませんか?」
どうやら最初から、絵本通りの龍を作ることが決まっているらしい。翔は当然の如く提案に乗ってしまい、私は反対することを諦めた。私の浅知恵では、先生を困らせることもできはしない。もとより翔の我儘ですら苦にならない程なのだから。
「無論、腹側に前脚、背側に前脚を設けるだけでは、翼の干渉は避けられません。翼の可動域を確保した上でどこに前脚を配置するのかが問題になりますが……」
ディスプレイに映った鳥の骨格に、赤い円が重なった。鎖骨よりもさらに前、頸骨の上だ。確かに十分翼から離れてはいるものの、腕を取りつける土台としては余りにも頼りない。ここに慎ましやかな飾りをぶら下げるというなら、ティラノサウルスの腕というのも頷ける。
「なぜ龍を作るのに、鳥の骨が見本なんですか? ワニとか、ティラノサウルスは見本にしないんですか」
これに異議を唱えたのは、翔のほうだった。年頃の男の子にありがちな肉食恐竜への憧れは、翔の中にもしっかりと根付いていたのだ。
「見た目を龍に近づけることよりも、飛ばすことの方が困難だからです。それに鳥は、その実かなりティラノサウルスに近い身体をしているんですよ」
易しい解説を加えながら、先生は画面の上に鷹とディノニクスの骨格を並べた。ゆっくりとスライドさせると、次第に二つの骨格は、一つの曲線に近づいてゆく。
「本当だ。全然違う生き物だと思ってたのに……」
重なった骨格が、あどけない瞳の中で明晰な輝きを放っている。
「翼や嘴、尾以外にも、胸骨や骨盤に違いがありますが、二本脚で趾行する点において鳥類と獣脚類は共通しています――そしてこの二足歩行こそが、鳥類の肉体構造上の最大の欠陥でもあるのです」