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そして翔は龍になった

「その少年には、九月二五日現在捜索願が出されています。署で詳しい事情をお聞かせ願えますか、薬師寺教授」

 いる。翔も一緒だ。久方振りに翔を目にして、私は自分の弱さを呪った。思わず飛び出してしまうどころか、ぼんやりと眺めていることすらできない。翔の首はだらしなく伸びきり、真顔が空を仰いでいた。私はなぜ、おめおめ逃げ帰って来たのだろう。私はなぜ風邪にかまけて、翔を放ったままくつろいでいたのだろう。

「こんな……」

 こんなことになる前に、何かできることはなかったのだろうか。木の陰に蹲り震えるばかりの私を、郁美は何も言わずに抱え込んだ。先生が何かを言い返したけれど、遠過ぎてぼんやりとしか聞こえない。かわりに聞こえるのは、無数の小枝の折れる音。

 捕物が始まる。恐れに燻り出されるようにして、私はもう一度浜辺の様子を覗った。ちっぽけな先生と、それを取り囲む青い制服。警官達を見渡すうちに、先生の目が一点で止まった。私と、目が合ってしまった。

 責めればいいのか、責められればいいのかも分からず、立ち尽くす二人。冷たく閉ざされた時を、警官の叫び声が破った。

「おい、何か来るぞ!」

 猛禽の声。仲間が振り向いた時には、既に大きな影が彼らの間近に迫っていた。地面に伏せ、頭を庇い、飛び退る警官達。青く光る何かが、先生と多奈の間を横切る。杉の穂先を掠め、空へと舞い上がる翼の輝きに、私は思わず息を飲んだ。

 美しい。妄執から生まれたことを、忘れてしまいそうになるほど。秋の日差しを浴び、艶やかな瑠璃色に燃える、それは紛れもなく、龍の似姿だった。

「見ろ! 飛んでる!」

 警官達の間に、どよめきが広がった。無理もない。一度見た私でさえ、目を疑うほどの大きさなのだ。

「伏せて! 動くと狙われます!」

 多奈はあの一瞬で、影の正体を悟ったらしい。狼狽える警官達を鎮め、今も目で龍を追っている。

 おとぎ話の怪物は、しかし、秋空の深みへ溶け込み、瞬く間に姿を消してしまった。見渡す限りの水色が広がるばかりで、どんなに目を凝らしても、鳥の影一つ見当たらない。たった今目にしたのが、蜃気楼であったかのように。

「愛紗、今のが弟君の?」

 郁美を振り返り、私は頷いた。間違いない。あの時水槽で眠っていた個体だ。翔が本物の翔と呼んでいた、世界で一人きりのけもの。

「――そうか」

 翔なのだ。今、あの龍を操っているのは。漸く気付いて二人に目を向けると、林に逃げ込もうとする後ろ姿が見えた。

「薬師寺が逃げるぞ」

 桑島さんが叫ぶと同時に、別動隊が林道から飛び出した。先生は行手を阻まれ、車椅子と一緒に立ち往生している。警官達は砂利を蹴って先生めがけて走り出したが、数歩のうちに勢いを失ってしまった。空からの鋭い雄叫びが、彼らを地面に縫い付けたのだ。

「来るな!」

 空を仰いだ警官の顔には、恐ろしい最期が映り込んでいる。悲鳴を上げ、目を見開き、腰を抜かす若い方の警官。頭を庇う反対の手が、拳銃を突き出した。見れば他の警官達も、震える手で拳銃を構えている。

「撃つな、同士討ちになる!」

 止めにかかった桑島さんを、暗がりが包み込んだ。真上。影と風の塊が真っ直ぐに落ちてきて、岸辺を激しく打ち付けた。小石が弾かれる音と幾つもの銃声が、砂煙の中で混ざり合い、顔にぶつかる砂利のせいで目を開けていることさえままならない。交叉した腕を解いて口から砂を吐き出した時にはもう、翔の姿は高みに戻っていた。

 大騒ぎはたちどころに、遠くまで押し流されてしまったらしい。最後に見た格好のまま警官達は凍り付き、先生は跪いてぼんやりと空を仰いでいる。いち早く我に帰り、多奈が確保を命じる声。近くにいた警官が先生を取り押さえ、周りからも警官が駆け寄った。

「急いで。林の中に逃げ込みましょう」

 辺りが次第にくっきりと見え始めると、私は翔の姿を探した。翔、翔はどうなったのだろう。怪我は? 車椅子から投げだされてはいないだろうか。さっきと同じ後ろ姿を認め、私は胸を撫で下ろした。

「アキラ!」

 栄養失調で衰弱してはいないだろうか。長時間アクセスし続けた影響で、脳が損傷を負っていたらどうしよう。まだ翔と繋がっているのか、翔は身じろぎ一つしない。

 多奈達と入れ違いに駆け寄ると、どうしたのだろう。森の入り口に警官が残っているのが見えた。それも。口をだらしなく開け、落ちくぼんだ虚ろな目をこちらに向けている。

 まさか。私はゆっくりと足を止め、車椅子の反対側を覗き込んだ。翔はぐったりと空を仰ぎ、満ち足りた微笑みをたたえて、白いワイシャツに惜しみなく赤い血を流している。

「嘘……」

 翔は生きていた。今の今まで、生きていてくれたのだ。シャツを濡らす血だって、だからあんなにも温かそうではないか。目を離すことすらできず、私は立ち尽くした。

 翔の顔つきから、苦しみを見出すことはできない。かつて翔を包んでいた諦めの影までも、見せかけであったかのように。翔に降り注ぐ、透明な秋の日差し。明るい風にマコモが揺れ、コオロギの声がそよいだ。

「愛紗、ごめん。私があんなこと言いださなきゃ――」

 郁美を振り返ろうとしたそのとき、伸びやかな鳴き声が群青色の湖を震わせた。

 翔だ。山を越え、翔が飛んでゆく。顧みられぬ魂を載せ、まだ見ぬ海の彼方へと。

 翔が見つめていた空、硝子に隔てられた空。どこまでも広がる青に、浮かんだ影はなんと小さく、なんと潔いのだろう。朧な影が空に滲みついには消えてしまうまで、私はじっと翔を見つめていた。

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