翔がいない
地下室のことは、今でも時折夢に見る。お父さんと共に、階段を下ってゆく夢。水音に沈む深い闇の中を、一人で彷徨う夢。その先に待っているのが血塗られた奈落だと分かっているのに、夢の中の私は止まらない。
「愛紗?」
郁美も一緒とはいえ、地下室への階段は私の足を竦ませた。奥から乾いた風が吹き上がり、伸び放題の前髪を揺らす。あの時と、何もかもが同じだ。
「大丈夫。私、逃げないから」
手摺を掴んで、私は一歩ずつ階段を下り始めた。爪先が震え、背中を重たい汗が伝う。私はまだ、あのとき先生が、本当は何をしていたのかを知らない。先に下りた警官と、多奈の相談する声が聞こえる。踊り場を曲がると、既にアルミの扉は開いていた。
「あーつ。薬T、よくこんなとこで仕事できるもんだね」
後ろで郁美が、わざとらしく音を上げた。
「部屋の温度を、体温に近づけたかったんだと思う。後は、乾燥?」
こんな時に、無駄口がすんなりと出てくるものなのか。私は最後の一段を飛び越え、軽い足取りで実験室の中に入った。あの日私は、ここで翔に捨てられた。最後に見た時と変わらない、LEDの赤い光。壁際の作業台、棚の上に並んだ水槽、床に這う太い電源コード。けれども、そのあちこちで、警官達は戸を開け、棚をどかし、隙間をペンライトで探っている。
壁に寄りかかり、私は色濃い溜息を吐き出した。ここは本当に、もぬけの空なのかもしれない。ぼんやりと部屋を眺めるうちに、私は漸く、のんびり構えていられるもう一つの理由に気が付いた。
「カケルがいない」
一番大きな水槽のあったところに、台座だけが残っている。アクリルケースまでなくなっているせいで、今の今まで分からなかったのだ。私が多奈の居場所を尋ねると、背の高い警官は奥の部屋から多奈を呼び出した。
奥の扉から、顔を覗かせた多奈。私は小走りで近づき、実験体がいなくなっていることを伝えた。
「既にここから出ていった後なんだと思います」
そして今、翔達と一緒にいる。片付けられた水槽の跡が、私に漠然とした確信を与えた。
「途中で死亡した可能性も加味するべきですが……最後に見た時、どのくらいの大きさがありましたか」
実験体の外見について私達が話していると、奥から桑島さんが現れた。多奈も出てきた、銀色の扉。翔と先生が帰っていた、あの部屋だ。
「岸上さん、どうしたんですか?」
足が勝手に動き出し、奥の扉へと私を運んでゆく。ぼんやりと霞んだ心に、止める力は残っていない。安物のノブを掴み、扉を引くと、冷たい霧が流れ出して来た。
中は驚くほど涼しい。青ざめた蛍光灯が、机の上のモニター達を照らしている。隣が実験室なら、ここは資料室だろうか。鉄板の本棚には分厚いファイルがびっしりと並び、その上にも同じファイルが寝かせてある。
書斎然とした部屋の中、向かいの壁際に並ぶガラス張りの棚が目を引いた。薬品か何かだろうか。棚の中で、無数の瓶が輝いている。その中身を確かめ、私は自分の間違いを悟った。
胚だ。大小の筒の中に、発生途中の胚が収められている。頭から血が引いてふらついた私を、温かい腕が抱き留めた。
「愛紗、大丈夫?」
郁美が付いてくれているのに、顎の震えが止まらない。首が異様に伸び、捻じれた個体、前脚がなく、二対の翼を持つ個体、上顎が反り返り、羽毛に包まれた個体。見れば三日胚の段階で、肢芽が無秩序に生え、膨れ上がったものもいる。
「行こう、じっと見てたら、余計にしんどくなるだけだよ」
私は郁美を振りほどき、戸棚に貼りついた。飛翔体ロ、飛翔体チ、飛翔体ヲ、飛翔体サ。ラベルに書き込まれた名前を、私は知っていた。飛翔体チ:0-60。
「カケル……これみんな、カケルだっていうの?」
二匹だけではなかったのだ。彼らはここに並んでいる、哀れな生き物のうちの二匹に過ぎない。棚に寄りかかったまま、私は冷たい床にへたりこんだ。郁美が引っ張り起こしてくれなければ、お尻から順に凍って、私はそのまま二度と立ち上がることが出来なかっただろう。
「ごめんなさい。止めておくべきでした」
部屋から出てきた私達を見て、多奈は首を横に振った。
「いえ、私が悪いんです。勝手にうろついたから……」
それより。慎重に息を吸い、私はか細い声で願い出た。
「あの子達を、埋めてあげることはできませんか?」
この施設で発見されたものは、ひとつ残らず警察に押収される。多奈の答えは厳しく、それだけに真っ当だった。
「しかしながら、この事案は政治的に極めてデリケートです。資料が内密に処分される可能性は高い」
その場合は、私からも頼んでみましょう。私を真っ直ぐに見つめ、多奈は一度だけ深く頷いた。胸のつかえがとれた一方で、翔の行方は手の届かない霧の奥へと逃げてゆく。新しい発見がないか、尋ねようとしたその時、多奈は私を制し、耳に手を当てた。いつまで続くか、分からない沈黙。多奈は振り返り、私達に目的地を告げた。
「別動隊が容疑者を見つけました。水月湖北端の浜辺、アキラ君も一緒です」
捜索隊は大急ぎで地下室から撤収し、林の中を歩き出した。薄闇に吸い込まれてゆく、息遣いと無数の足音。湿った土の匂いと、靴の下で転がる小枝。この先に、翔と先生がいる。木の根に足を取られ、借り物のスニーカーが落ち葉に沈み、萎えた脚が悲鳴を上げ始めたころ、木立の向うに、漸く日の光が見えた。
「止まって。ここで待っていてください」
短い行軍が止まり、警官達は左右に広がってゆく。始まるのだ。私は目を凝らしたが、木々の隙間は白い光に満たされ、朧げな影すら望めない。木の陰で気を揉んでいるうちに、林の外から多奈の声が聞こえてきた。
今なら。私は音を立てないように林を進み、林の縁、大きな杉の木の後ろから外の様子を窺った。




