龍に憑依する
自分の脚で歩くことを、一度でいいから翔に体験させてあげたい。それ以上のことなど何も望みはしなかったのに、二人が始めようとしている実験は、私が思っていたのと違う方向に進みだしている。行きつく先に何があるのか、本当に何かがあるのか。それまでと同じ一週間を繰り返している振りをしながら、私は何の答えも得られないまま次の金曜日を迎えた。
「第一の問題は」
先生の話し方は、講義の時と変わらない。
「運動制御は、端末器官の本来の機能ではないということです」
違うのは、明らかに先生が楽しんでいるということだ。壁かけの大きなディスプレイに、先生は画像を表示した。
「端末器官は角回のシナプスに隣接し、電磁波中から特定のシグナルを送受信するアストロサイトの総称です。主に言語情報の出入力と視聴覚の入力を目的とし、元々角回に繋がった言語中枢の他、視覚野や運動前野と両方向的に刺激を伝達することが可能ですが、運動前野からの入力はカーソルの指向などに限定されています」
前頭葉と側頭葉を分ける溝の先に緑色の領域が浮かび上がり、そこから前頭葉と側頭葉に向かって矢印が伸びてゆく。図解を参照しながら、私たちは次々と現れる用語を追いかけた。ウェルニッケ野は言語の理解に関わる部位、ブローカ野は発話に関わる部位。私は一般教養で分子生物学をとっているだけで、生理学には触れたことがあるくらいだ。ましてや翔の知っている言葉が、この中に一体幾つ混じっているだろう。
「脊椎動物の運動制御は、中枢神経の広範囲にまたがって行われます」
随意運動のために直接筋肉に出力される命令だけでも、一次運動野は勿論、補足運動野、運動前野、小脳や大脳基底核からの信号、さらには脳を経由せずハーフセンターで処理される信号などが存在する。これらの器官は端末器官に繋がっておらず、また端末器官にはそれら全ての信号を伝えられる程の通信速度はない。
「そこで今回は、実験体の脳を最大限に活用します。無意識下の計算処理を実験体に肩代わりさせ、必要な入力を最小限に絞り込む。端末器官の通信量で必要な信号を十分に伝達することが可能です」
強張っていた肩が、少しだけ楽になった。運動制御への介入度を下げる程、翔の脳にかかる負担も小さくなる。話が決まった時にはどうなることかと思っていたけれど、技術的な限界が結果的に翔を守ってくれたのだ。
「実際はどのあたりまで、僕の脳が考えることになるんですか?」
私と逆に、翔は表情を曇らせた。自由に空を翔る龍の身体。翔の目には、さぞ輝かしく見えることだろう。片時でも手を放したら、自ら飛び込んでしまうに違いない。美しい夢の下に、ぽっかりと奈落が口を開けていたとしても。
「例えばアキラ君が、コーヒーを飲もうとしたとします」
先生の吐息が触れるたび、白地の薄い湯気が揺れ動き、香りの輪郭が朧げに浮かび上がる。一つ一つの関節を動かしながら、先生は絡み合った知識を順番に解いていった。
「カップを手に取るには、位置と向きを確認し、掴むことを意図した後、肩、肘、手首、指をどれだけ曲げるか、またその為にどの筋肉をどれだけ縮めるかを計算しなくてはなりません。こうして割り出された動作も全てが実行に移されるわけではなく、単なる試算に留めるか、実際に筋肉に伝えるかどうかの判断も必要です」
ありふれた簡単な仕草の中にも、脳はこれほどの手筈を隠していたのだ。この長い説明にも、しかし、翔はためらうどころか車椅子から身を乗り出している。私が話しているときでさえ、遠慮がちに頷いてばかりの翔が。
「確かにそうですけど――でたらめに腕を動かしても、カップはつかめないでしょうから」
熱のこもった眼差しで先生が見つめる中、翔はおずおずと言い訳をこねくり回していたが、やがて一つ目のチェックポイントを見つけた。
「でも、実際はそんなことを考えたりしないし、考えなくてもできるし……」
カップまでの距離を測ったり肘を曲げる角度を計算する方が、よほど大変だろう。
「そう。体を動かすときにアキラ君が考えていることは、脳が行っている計算のごく一部に過ぎません。私達の身体は、かなりの程度を自動運転に頼っているのです」