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 不意に私は、頬を叩かれたことに気が付いた。

「おーい、生きてるか―」

 郁美だ。肩越しに黄緑の生化灯が見え、私は眩しさに目を瞑った。

「ここは?」

 暑くて息苦しい。柔らかくて大きいものが体全体にのしかかっている。さっきの砂浜は、一体どこに消えたのだろう。

「私の部屋だって。夕べのことなのにもう忘れたわけ?」

 途切れていた記憶が次第に繋がってゆく。乗り替え場に取り残された私を、郁美が迎えに来てくれたのだ。夢を見ていたことが分かって、私は胸をなで下ろした。

「そっか。そうだよね……」

 あんな悍ましいものが出て来るのは、夢か映画の中くらいだ。良くないイメージは、早く忘れよう。目を瞑って深呼吸を繰り返してみたものの、心臓はなかなか鎮まらない。

「びっくりしたよー。いきなり叫び出すし、布団蹴散らして悶え苦しむし、本当にどっか悪いのかと思ったわ」

 郁美は脚を崩し、畳の上に胡坐をかいた。にやついているけれど、目元には隈が浮かんでいる。

「ごめんね、うるさかったでしょ。他にも、色々」

 私、迷惑かけてばっかりだ。額を拭ってもらうと、息苦しさが少しだけ、そこから抜けていく気がした。

「あんなことがあったばっかりだからね。多少は大目に見てあげる」

 郁美は私を覗きこみ、少しだけ眉を寄せた。

「今は平気? もう痛いとこはない?」

 単なる幻だったのがはっきり分かっているからだろうか。いつの間にか、あの痛みを思い出すことさえ難しくなっている。

「うん……」

 頷こうとしたその時、景色の手前で脳が揺れた。熱くて重たいものが、身体の底からせり上がって来る。咄嗟に上体を起こし、横を向いた私を見て、郁美は洗面器を差し出した。

「愛紗、ここ!」

 私は微かに首を振ったが、息が続かず結局中身を垂れ流した。硬く目を瞑っていても、味だけはどうにもならない。昼に食べた卵粥だ。誰かがホールトマトと、白ワインを混ぜたみたいだけれど。

「キッチンまで歩ける?」

 私は情けないことに、郁美の作ってくれたものをシンクに洗いざらい吐き出してしまった。


 その後も胃腸はタピオカさえ受け付けず、翌日郁美の付き添いで私は病院に向かった。栄養と抗体を点滴で流し込むと容体もいくらか上向きになり、あと数日もすれば何事もなく退院できるという。私が寝込んでいる間、手続きを済ませてくれたのも郁美だ。母は表ざたになるのを恐れて静観を決め込んでいるのか、それとも私達が三方で幸せに暮らしていると思っているのか。いずれにしても、社会運動程には執着心が湧いてこないということだろう。

 状況が変わったのは、退院が明日に迫った五日目の夕方だった。

「愛紗、色々考えたけど、私達にできることには限界があると思う」

 郁美の顔つきが、いつになく険しい。私は目を伏せ、黄色いシーツを握りしめた。

「うん……」

 終わったのだ。もう二度と、翔は帰って来ない。けれど、それなら、私にどうしろというのだろうか。思い起こして悲嘆にくれることだろうか。それとも三方に戻って、翔が喪われていくのを笑顔で見守ることだろうか。

郁美の答えは、そのどちらでもなかった。

「だからさ、警察に連絡してみない?」

 傍から見れば、先生がやったことは紛れもなく誘拐だ。警察だって、刑事事件なら動いてくれるだろう。

「そうするしかないのかな、もう」

 それは文字通り、最後の手段だった。きな臭い秘密を解き放ったとき、それが何を呼びよせるのか。私には見当もつかない。

「私にも確かなことは言えないしさ、愛紗のいいと思った方を選べば、それでいいと思う」

 翔の運命を先生に委ねるか、それとも秘密を明かすのか。私は一晩考えた末、世間の力を借りることにした。

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