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郁美が迎えに来る

 そこからどうやって帰ったのか、私はよく覚えていない。泥だらけで戻ったせいで運転手のおじさんにぎょっとされたことだけが、なぜか印象に残っている。タクシーはいつの間にか乗り替え場に着いていて、まだ日は沈んでいないというのに街は陰に染まっていた。

 私は乗り込んで初めて、水上タクシーが止まっていることに気づいた。街はもう台風の中だ。見れば水路の水かさが上がり、排水孔が沈んでいる。

 私はため息をつき、乗り替え場を見渡した。水上タクシーのほかには、私がとり残されているだけだ。乗り替え場のキャノピーに反射する、ルシフェリンの青い光。

 こんな時に表をうろついているのは、私くらいのものだろう。舟が動いたところで、家には母がいるし、この格好でお店に入れるわけもない。ひと気がないだけ、都合が良かったと考えるべきなのだ。

 私は乗り替え場のベンチに座り、キャノピーを洗う雨音に耳を傾けていた。そういえば、朝から何も食べていない。しくしくと傷む胃を抱え込む私をよそに、水上タクシーはスタンドから口移しで蜜をもらっている。

 結局私は、一人でおめおめと戻ってきてしまった。母の予言は正しかったのだ。私が余計なことをしなければ、翔が自分を捨てることはなかった。今もきっと、私と一緒に部屋から嵐の空を眺めていた。


 それから、どれだけの時間が流れただろう。平らな眺めの右下に、新着の文字が現れた。

〝風、強くなって来たね。街灯めっちゃ揺れてる。愛紗のとこは大丈夫?〟

 郁美だ。今日は色々なことがあった筈なのに、今更になって涙が出てきた。郁美が連絡した相手はきっと彼女と同じように、家で暇しているのだろう。こんなメッセージに励まされるなんて、我ながら馬鹿げている。

〝分かんない。家、飛び出してきちゃったから〟

 具合のいい嘘を考える気力はないし、全てを説明する根気もない。堅く滑らかなベンチに横たわると、藍染のシャツは鈍く湿った音を立てた。

〝道理で台風も来るわけだわ……で? 今日はどうするつもり?〟

 相変わらずと言うべきか、何だって郁美はこんなに優しいのだろう。思えば今夜の寝床どころか、街に帰ってきた後どうするかも考えていなかった。少しでも考えていれば、傘の一本くらいは持って来ていたかもしれない。世話をかけずに済む方法を考えてみたけれど、結局私には何も思いつかなかった。

〝乗り替え場にでも泊まろうかな。この天気なら、誰も来ないだろうし〟

 素直に泊めてくれと言うことさえできない、狡くて我儘な私。きっと母に似たのだ。愛想を尽かされても仕方ない。

〝台風が行くまでそこで待ってて〟

 キャノピーの骨組みや黄緑色の光がぼんやりと混ざり合ってゆく中で、白い文字だけがくっきりと表示されていた。


 それから私は、別荘で起こったことを少しずつ郁美に打ち明けた。翔のこと、先生のこと、温室の下に眠る真っ赤な玄室のこと。警報が解けた時には既に二時を回っていたが、五分もしないうちに郁美は乗り替え場まで迎えに来てくれた。

「歩いて来たの?」

 雨はもう止んでいるが水の流れが速すぎて、まだ水路は復旧していない。郁美は少なからぬ荷物をかついで四十分近く歩いて来たのだという。

「あんたと違って、私は日ごろからちゃんと運動してるの」

 郁美はバックパックから黄色いバスタオルを取り出し、私の身体をくるんだ。太陽の香りがして、とても柔らかい。タオルの他にも、ガス缶だのケトルだの、立派な道具が次々に出て来る。つるつるとしたエクレアをかじる傍ら、郁美はケトルをバーナーの火にかけ、カモミールティーを入れてくれた。

 水上タクシーが動きだすのを待って、私達は郁美の下宿に向かった。寝てない上に疲れ切っていたこともあり、私は横になるなり気を失ってしまったのだという。明くる日の昼過ぎには三九度の熱が出て、余計に迷惑をかけてしまった。

 頭が重い。タオルケットが喉に食い込む。天井から投げだされた身体が浮き沈みを繰り返し、次第に沖へと流されてゆく。飛び飛びの時間に漂ううち、私は見慣れた岸辺に打ち上げられた。

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