龍のように
震える声を絞り出すと、先生は私を振り返った。まだだ。このときのために、用意してきた物がある。
「無論、ただでとは申しません」
白い肩かけ鞄の中には、紙切れ一枚の厚みしかない安物の茶封筒が入っている。私は茶封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ここに。小切手で五千万、半分を前金としてご用意しました」
これだけの予算があれば、依頼を進めるのに不自由はないだろう。断念した実験を再開し、技術を完成させる最後の機会。手を伸ばして封筒を拾うと、先生は片道切符を取り出し、印字された数字を見つめた。瞳を満たしていた冷たい陰の底から、力強い光が浮かび上がってくる。
「前例のない実験である以上、成功をお約束することはできません。それでもよろしいですか」
約束できないと断っていながら、その目には絶対の自信が宿っている。私たちが見てきたのは、本来の先生の姿ではなかった。今目の前にいるのが、軽傘第一ギムナジウム在学中に第五世代のコドンスクリプタを完成させ、生体工学を牽引していた研究者、薬師寺慧その人なのだ。
「私たちには、今まで何の望みもありませんでした。この可能性には、私たちにとってそれだけの価値があるんです」
私の訴えに、先生は一度だけゆっくりと頷いた。
「各木さんのお気持ちはよく分かりました」
封筒をテーブルの上に戻し、先生は翔を見やった。
「ですが各木さん、この話は、私たちだけで進めてよいものではないはずです」
翔は自己紹介したきり、確かに一言も口を聞いていない。人前に出ることさえ滅多になかったというのに、初めて出会う先生との小難しい話にどうやって混じれというのだろう。
「アキラ君、先に簡単な説明をさせて下さい」
先生が車椅子の前に片膝をつき、じっと翔の目を覗きこんだ。いけない。竦んでいる。
「ごめんなさい。アキラはあまり人に慣れていないから」
私は布張りのソファから立ち上がり、横から抱えるようにして翔を庇った。
「ね、アキラ。アキラも皆と同じように、跳んだり走ったりできるかもしれないよ?」
私と先生の間に目を走らせ、小さく相槌を打つ翔。振り返った私を無視して、先生は続けた。
「僕が考えているのは、別の身体を作って、アキラ君が動かせるようにするというプランです」
ゲームをしたりニュースを見たりするのに翔が普段から使っている生体端末、正確には皮質上短波送受信桿体群と言われる器官を利用して、促成培養した人体に同期、いわば乗り移った状態を作り出す。過去の実験では簡単なオートアニマの制御が成功しており、通信量は増えるものの、人体の操作も不可能ではないという。翔の身体には加工が必要ないため、痕跡も残らず失敗しても後遺症の心配がない。私がこの方法を選んだ、最大の理由がそれだ。
「アキラ君、君はどう思う? このプランを成功させて、自由な運動を体験してみたい?それとも、これは要らないお世話だろうか。自分の身体が自由になるのでなければ、空しいだけだろうか?」
初めから最後まで、先生は一つ一つ翔の目の前に並べていった。逃げ道を作ったのは先生なりの誠意かもしれないけれど、引っ込み思案な翔にとってそれは絶対与えてはいけないものだ。私たちが見守る中、翔の口から出てきたのは答えではなく問いだった。
「先生……オートアニマを動かす実験はやったことがあるんですよね」
ええ。穏やかな相槌に、翔は顔を上げた。
「人間以外の身体でも、僕に動かせますか」
私には向けたことのない光で、翔は真っ直ぐ先生を見つめている。
「空が飛んでみたい。おとぎ話に出てきた龍のように、僕は自由に空を飛びたい」
私は翔の夢を、誰よりも理解していた。他の子が公園を駆け回り、鬼ごっこに夢中になり、それがやがてサッカーに代わり、外の世界を奪われた翔が、彼らをどんな気持ちで見ていたのか。脚が欲しい。たとえ一瞬でも、この子を皆と同じように歩かせてあげたい。翔の夢は、ずっと私の夢でもあった。
「龍? 鳥ではなくて?」
初めて翔が語った夢は、遥かな地平線に浮かんでいた。子供らしい想像力が翔に見せた幻か、それとも無数の諦めと我慢が言わせた我儘なのか。いずれにしても、大人がついていくのは難しい。
「うん、鳥は小さいけれど、龍は大きくて、それに強い生き物だから」
私達を置き去りにして、絵空事は軽やかに羽ばたいてゆく。余りの無邪気なお願いに、流石の先生も黙り込んでしまった。横道に逸れたまま、肝心の実験になかなか話が戻ってこない。
「アキラ、無茶言わないの。先生も――」
翔を窘めようとしたその時、窓の外を二つの影が横切った。姿を確かめる間もなく、羽ばたく音も彼方に吸い込まれてゆく。
「面白そうですね」
先生の言葉に、私は自分の耳を疑った。
「龍だからといって設計できないことはないでしょうし、どうせやるなら一から新造する方が面白そうだ」
先生は、何を考えているのだろう。後から冗談だと言われたら、翔は傷付くに決まっている。
「先生、アキラは何も知らないから、こんな、我儘……を……」
訴えの険しい刃先は、髪の下でうなじをすくませた。乾いた目を向けた先で、先生の瞳が冷たく燃えている。それは違います。
「アキラ君の我儘に付き合うんじゃない。僕が彼の挑戦に参加させてもらうんです」
動物を一から設計する。それも空想上の動物を。企業が十年単位で取り組むような開発を、これほどまでにあっさり引き受けられるものだろうか。
本心を疑いながら私は何も言い返せず、唇をかみしめた。翔を甘やかせば確かに理解者を装うことはできるかもしれない。けれどもそれは、何も知らないからだ。他人だから、自分が世話しなくていいから、いつでも放り出せるから、無責任な言葉も口に出来る。
「本当に、いいの?」
翔の顔つきから、いつもの蔭りが消えている。今までただの一度だって、こんな表情を見せたことはなかった。たとえ笑っているときでさえ、翔はどこか苦し気な、申し訳なさそうな陰に浸っていたというのに。
「もちろん。僕自身も楽しみです」
この人には、翔はこんな顔を見せるのだ。翔を連れて来たことを、私は少しだけ後悔した。