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子供の頃の記憶

 その後も何かと理由を付けて、私は翔を先生に引き合わせることを避けていた。翔は日に日にしつこくなり、実験のことばかり訊ねてくる。可哀相だけれども、これ以上砂利道を進んではいけない。あの先に何があるのか、確かめようとしてはいけないのだ。

 私の思いとは裏腹に、朧げだった夢は少しずつ鮮明になっていった。夢の中の私は子供で、翔はどこにもいない。私が寝ていた場所は、間違いなく温室のテラスだ。砂利道は湖岸の林道で、私達は散歩をして別荘に戻る途中。

 それでもまだ、私の手を引いてくれるあの人だけは誰なのか分からない。夢を見ている間は顔もはっきり見えているのに、目を覚ますと記憶が解けて隙間から零れ落ちている。先生ではないという確信が強まるほど、漠然と感じる無条件の愛が一体どこからやってくるのか、益々分からなくなっていった。

 いとけない調べにうっすらと目を開けると、ウィンドチャイムの棒が、錘に弾かれ躍っていた。お昼の後、どれくらい眠ったろう。ひょっとしたら、もうじきおやつの時間かもしれない。

「愛紗、おいで。散歩に行こう」

 私は体を起こし、岸辺で手を振る人影を見やった。真っ白な日差しに水面がきらめき、穏やかな風に草花が揺れている。起き上がって階段を下り、私は大きな手を握った。

 風を殆ど感じないのに、林の中は不思議と涼しい。鳥のさえずりが木立をすり抜け、木漏れ日の香りと溶け合い湖へと流れ込んでゆく。

「帰ったら、愛紗に見せたいものがあるんだ」

 妖しい香りに満ちた梅林に辿りつくと、私達はいつも通り砂利道を引き返した。見せたいものとは、いったい何だろう。前に話していたボートか、それともまた、珍しい鳥が増えたのかもしれない。

 外を夏の盛りというなら、温室の中を表す五つ目の季節が必要だ。水色に染まったヒスイカズラや、バニラの白い花が咲き乱れる、サウナの季節。息をするのも苦しいというのに、私たちには目もくれず、サイチョウは明後日の方向に向かって鳴いている。小屋のポーチに辿りついても、涼しさなどというものは残されていなかった。

「見せたいものって?」

 蒼い小鳥と、偶然目があった。ゴムの木に留まって、私達を見つめている。

「赤ちゃんがいるんだ……そうだね。言ってみれば、愛紗の弟みたいなものかも」

 母さんには内緒だよ。後でびっくりさせるつもりだからね。あの人は小屋に入り、電気を点けた。

「赤ちゃんがいるの? 凄い! お父さん、早く、早く」

 狭い部屋の中、地下に下る階段の奥へと黄色い灯りが続いている。私はお父さんをおいて、足早に階段を下りていった。


 息苦しさに目を覚ましたとき、部屋にはまだ青い夜が満ちていた。今の今まで、一体なぜ気づかなかったのだろう。お父さんと遊ぶのは、大好きだった筈なのに。

 ゆっくりと起き上がると、冷たいTシャツがべったりと背中に張り付いた。空気が重い。寒くて震えが止まらない。私はベッドを離れ、カーテンの隙間から月を見上げた。

 透き通った夜空の底に、白い満月が沈んでいる。横になってから、何時間も経っていなかったということだ。虫達のせせらぎを遠くに感じながら、私は月明りの中に立ち尽くした。

 あの別荘は先生の家の物だ。幼いころの私やお父さんが、あそこに居ることなどありえない。古い思い出が、三方への旅行と混ざってしまっただけだ。私は何度も繰り返し自分に言い聞かせてみたが、考えれば考えるほど淀んだ深みに嵌っていった。

 もう一度目を閉じたら、きっと私はあの夢を見る。私が最も恐れる答えが、暗い階段を下った先にある。私はタオルケットにくるまり、座ったまま朝を迎えた。今、ここに先生がいてくれたなら。一体どれほど安らかに眠れることだろう。

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