翔、飛び立つ
この別荘に来て、初めての雨が降った。まだ八月というのに、空はまだ暗く、風が肌寒い。幸い午前は買い出しに行く予定があったので、私達は時間を無駄にせずに済んだ。
昼食後、雨上がりの空の下、飛行訓練は始められた。湿った力強い風に雲が流れ、切れ間から差し込む光が景色を塗り分けている。傘を広げただけで飛んでいきそうな、絶好の条件だ。
出来るだけ羽ばたかず、風の上でバランスをとること。先生の指導に間違いはない。昨日は六回離水に成功したが、飛行時間は回を追うごとに長くなっている。
「大分コントロールが効くようになりましたね。アキラ君、少しずつ目標高度を上げていきましょう」
翔の飛ぶ様子を確かめ、先生は次の目標を言い渡した。
「漸く飛んでるって感じになってきましたね」
いつもの翔からは想像できないほど、不敵な笑み。熱のこもった眼差しは、頼もしいようでどこかに危うさが見え隠れしている。
「カケルが遠くなりすぎて、通信が途絶する心配はありませんか?」
翔は波打ち際から顔だけ出して、ぼんやりと私達を見つめている。自分で逃げ出すとは到底思えないけれど、風に吹かれて飛び回っているとなれば話は別だ。
「この数日で、カケルの回線は相当に発達しています。それに操作していなくても、カケルはこの笛に反応するでしょうから」
首から下げたホイッスルを、先生はつまみ上げた。いつだってこの多数決は、二対一に決まっている。私は大人しく引き下がり、先生に任せることにした。
翔は風上に向かって、殆ど助走をつけずに飛び出した。大きい。草木がざわめき、水面が震えている。翔はあっという間に鈍色の空へと舞い上がり、私達の頭上を通りすぎた。
「カケルが!」
振り返った先に、翔の姿がない。雲に紛れた影を求めて、私は空を見渡した。風に負け、遠くへ流されてしまったのだろうか。それとも既に、森の中に落ちてしまっているのか。黙って空を見上げる先生を、私は急き立てた。
「先生、早くカケルを探さないと――」
私の提案を、先生は指一本で遮った。翔だ。森の上を、まだ無事に飛んでいる。翔は風が止むのと同時に舵を切り、森の上から滑り降りた。弧を描いて湖の上を掠め、光の中に飛び込んでゆく、小さな後ろ姿。
大空を舞う翔の後ろ姿を見上げ、私はぬかるみに跪いた。翔がずっと夢見ていたのは、この光景だったのだ。
車椅子どころか、母の作った鳥籠にずっと閉じ込められていた。薄暗い部屋の中、窓越しの小さな空はどれほど眩しく見えたことだろう。
今や大地からも解き放たれ、果てしない空のただ中に遊ぶ、あれは翔の心だ。翔が行ってしまう。想像の翼が、あまりに自由であったがために。
「どうしました?」
先生は私の隣に屈みこみ、私に問いかけた。
「だって先生、アキラが……」
言ったところで、先生の返事は決まっている。回線が途絶しても、翔が目を覚ますだけ。私の感傷こそ、世迷言というべきではないか。先生は顔を曇らせ、車椅子で眠る翔と私を何度も見比べた。
「大丈夫、戻ってきましたよ、ほら」
暫くすると、先生が私の肩をゆすった。対岸から、翔が引き返してくる。小さな影が水面を滑り翔の上を過ぎったとき、私は思わず息を飲んだ。翔は眠ったまま、涙を流していたのだ。




