この日々が続けば
翌朝は食事が終わって早々、訓練が始まった。まだ日が低いお陰か、木陰には夜気の残り香が漂っている。車椅子を押しながら湖畔を歩いていると、体中の空気が入れ替わっていく気がした。
「こんなにたくさん木が生えてたんだね」
外から見てても、全然気づかなかったよ。翔は森の天井を見上げた。人目を気にせず、自然の中で過ごす家族の時間。木漏れ日に当たっていると、この旅行の目的を忘れてしまいそうになる。
「そろそろ引き返しましょう」
先生曰く、翔はそもそも歩くのがあまり得意ではないらしい。泳ぐ姿を見れば、それがよく分かるという。
「泳ぎ方は体が覚えていますから、心配することはありません」
翔は水際で立ち止まり、脚で湖を突いた後、勢いよく湖面に滑り込んだ。ワニのように尾をくねらせて、驚くほど軽やかに進み、曲がり、水を切る。
「本当に楽そうですね」
先生は頷くと、翔を岸に呼び戻した。飛ぶ練習が、いよいよ始まるのだ。
「まずは助走を付けるところから。短い距離を全速力で泳いでください」
静かな湖畔に突き刺さる、ホイッスルの音。殆ど飛沫を上げず、翔は鋭く水面を過ぎった。それでも体が浮かなければ、空へと飛び立つことはできない。数回同じように泳がせた後、先生は上体を持ち上げるように指示を出した。
翔は言われた通りに離水を試みたが、何度やっても、身体を起こした途端にスピードが落ちてしまう。私達は進展のないままに正午を迎え、気分転換を兼ねて庭先にレジャーシートを広げた。急ごしらえのサンドイッチはツナやBTLばかりだけれど、そよ風に当たりながらのお昼は何物にも代えがたい。
「こうしていると、昔を思い出します」
風に揺れる木陰の縁。シート越しの尖った小石。幾重にも重なり合った蝉の声。失われてしまったと勝手に思いこんでいた、幸せの遠景が今に映り込む。
「各木さんに少しでも楽しんでもらえたなら……良かったです」
二人の実験に付き合わされて、私が退屈していないか、心配だったのだという。私は首を振り、水辺で遊ぶ翔達を見やった。
「母が離婚する前は、よく親子三人で出かけました。父も湖畔に別荘を持っていて、夏休みをそこで過ごすんです」
あの頃は、母も優しかった。変わってしまったのは、翔が生まれ、父と別れてからだ。偏った思想に凝り固まり、家を空けるようになる前、母がどんな人だったかを翔は知らない。
「私も子供の頃は、毎年連れて来てもらっていました」
先生の目には、どんな情景が見えているのだろう。微笑みの隙間から、ふとあどけなさがのぞいた気がした。
「この日々が、いつまでも続けばいいのに」
私達が本当に、家族だったらよかったのに。肌を合わせている時でさえ見せない素顔を、四日のうちに、後何度目にすることが出来るだろう。一度でいいから触れてみたくて、私は横顔に手を伸ばした。




