翔が一歩を踏み出す
昼食が終わると、庭先での訓練が始まった。アクセスそのものは一度行っているけれど、翔を動かすのは実質初めてに近い。
「では前と同じように、黄色い右三角を選択してください」
交感操作の回線は、人間が実験体側のソフトを起動することで接続される。翔に近づくと、視野の右下に表示される三角形がそのためのアイコンだ。そこまではオートアニマにリクエストを送信するときとさほど変わらない。
「はい」
私は固唾を飲み、その瞬間に身構えた。返事をしてから数秒で点滅していた三角形が消え、同時に翔の首が傾ぐ。抑制をかけているだけだと分かっていても、こればかりは慣れそうにない。初めて見たときは、本当に死んでしまったのか思ったくらいなのだ。
「各木さん、試しに呼んでみて下さい」
果たして今あそこにいるのは、翔なのだろうか。私の呼びかけに応じるかどうかで、それが分かる。
「アキラ、こっちだよ」
私達が見守る中、翔は辺りを見渡し、それから私に向かって鳴いた。先生でも翔でもなく、私に向かって。
「私のこと、分かる?」
歩いている。翔が、こちらにやってくる。スカートの裾が汚れるのも構わず、私は膝をついて翔を抱き上げた。私を見つめ返す、とび色の瞳。さらさらした脇から伝わってくる、微かな熱。翔だ。間違いない。この中に今、翔が居る。
「先生!」
私は思わず叫んでいた。先生も珍しく、握りこぶしを作っている。
「第二段階は上手くいったようですね。アキラ君に聞かなければ、確かめることはできませんが」
先生に促されて、私は地面にそっと翔を降ろした。小さな脚で草を踏み分け、翔は確かな足取りで赤いパイロンに近づいてゆく。
「アキラ君、パイロンの間をS字に歩けますか?」
長い尾を引きずりながら、翔はパイロンの間を通り抜け、それからその場で向きを変えた。
「ぎこちないですね。カケルの身体に慣れていないのかも」
しきりにパイロンを探しながら翔が辿っているルートは、S字というより、ジグザグと言うべきかもしれない。
「運動より、空間認知の問題かもしれません。視界から外れると、パイロンの位置を忘れてしまうのではないでしょうか」
これを肩慣らし程度に思っていたのだから、暢気と言われても仕方ない。元々の目標が空を飛ぶという難題なのに、私達は当たり前の遥か手前からスタートしなくてはいけないのだ。私が立ち尽くしているうちに一番奥のパイロンまで辿りつくと、翔は辺りを見渡した。
「ここまで戻ってきてください」
先生は翔を呼び寄せ、一度ログアウトさせた。最初のうちは、長いアクセスを控えるべきだという。黄色い三角が再び点滅し、暫くして翔の瞼が動いた。
「アキラ、大丈夫?」
私が問いかけると、翔は掠れた声で応えた。
「……姉さん? 凄いよ、世界は広くて、どこまでも続いていて……それなのに、体がどんどん前に進んでいくんだ」
どこまでも行けるような気がする、と翔がまくし立てるのを、私はただ頷きながら聞いていた。私が思い描いていた形とは違うけれど、そんなのは些細なことだったのかもしれない。私の目の前で、翔は確かに歩いていたのだ。
「良かったね、アキラ」
数分の休憩を挟んで、練習は再開された。
「なるべくパイロンを見ずに。そう、自分とパイロンの位置を意識して下さい!」
回を追うにしたがって、翔の足取りは、次第に弧に近づいている。早くも空間をイメージできるようになって来たのだろうか。私が尋ねると、翔は頭を振った。
「歩く道筋みたいなのは分かって来たけど、コーンがどこにあるのか、時々わからなくなって……」
先生はパイロンの位置を変え、日が暮れるまで練習を続けた。途中までしか見ていないけれども、二人の顔つきからするとノルマは達成できたのだろう。
「結局一人で作らせてしまいましたね。悪いことをしました」
サラダの並んだテーブルを見て、先生は私に謝った。
「いいんです。実験では手伝えることがありませんから」
食事と洗濯くらい、受け持ってもバチは当たらないだろう。断ろうとしたけれども、先生はカレー皿にご飯をよそってくれた。
「それで、明日は何をするんですか?」
実験に使えるのはたった五日。素人目にも、今のペースで飛行に辿りつくのは難しい。
「歩行訓練の延長で少し散歩をした後、泳ぐ練習を行います」
翔は水かきではなく、尾を使って泳ぐそうだ。一見無駄が多い竜の身体を、先生は本当に使い尽くすつもりでいる。
「アキラ君は筋がいいですよ。予定より前倒しで実験を進められそうです」
歩行訓練で躓いたのは、あくまで翔の空間認識力が原因なのだそうだ。
「後から解析して分かったんですが、運動計画よりも下流の情報が通信ログに含まれていたんです。これは凄いことですよ」
熱のこもった絶賛を受け、翔の顔に笑顔が灯った。
「明日はもう湖から飛び立つんですよね」
翔が訊ねると、先生は力強く頷いた。
「ええ、いよいよ空への挑戦です!」
夕食が終わった後も翔は話したがったが、長時間の交感操作で随分と疲れたらしい。お風呂から上がって間もなく、すんなりと寝入ってしまった。今日の実験結果を分析したいからといって、先生も自室に籠ったきりだ。
戸締りと火の元を確かめると私にはやることがなくなり、真新しいシーツに潜りこんだ。




