解き放たれた翔
「アキラ君、カケルを連れてきましたよ」
リビングの床の上には、果たして翔のケージがあった。連れ回されて疲れているのか、いつもと比べて鳴き声が頼りない。先生がそっと格子戸を開けると、翔は辺りを見渡しながら恐る恐るケージを這い出した。オリーブ色の身体は、最後に見た時よりもはるかに長く、大きい。
「籠から出して、大丈夫なんですか」
翔が逃げ出したりすれば、後々面倒なことになる。私の心配は、しかし、的外れだったらしい。
「刷り込みが効いてますから、当面は私に付いて回るだけでしょう」
見た目に騙されがちだが、翔の正体は鳥なのだ。誤って踏みつけたりしなければ、噛まれることもないと言われ、私は翔と顔を見合わせた。
「おいで、カケル。とっても大きな湖があるんだ」
翔は何のためらいもなく、先生の足下を離れた。軽い足取りで部屋を横切り、車椅子についてゆく。自分にとって、翔が何なのかを知っているかのように。チノパンに爪をかけ、よじ登ろうとする翔を拾い上げ、翔は膝の上に抱いた。
「広いでしょ。ここから見える空は、全部カケルのものなんだよ」
君はここを飛ぶんだ。首をもたげて、翔は湖を振り返った。鳥籠の中しか知らなかった翔にとって、この湖は果てしなく広大だ。
「昼から早速、歩行訓練を始めましょう。今のうちに、家の中を案内します」
先生は翔を呼び戻し、寝室を披露した。日焼けした毛足の長い絨毯と南向きの大きな出窓が、この部屋が客間だったことを物語っている。
「取りあえずベッドを下ろして来ただけですが、数日の間なら不便ということもないでしょう」
二階の部屋は、私と先生に一つずつ割り振られた。残りの三部屋は、書斎と納戸、翔のベッドがあった子供部屋だという。大きなベランダには物干し竿が陣取っているが、竿を下ろせばお茶くらいはできそうだ。身を乗り出して湖を見渡すと、どこからか透き通った鐘の音がなびいてきた。右手の足下、温室の方だ。
「隣の温室は、何に使われていたんですか?」
規則正しく折り重なった、ウィンドチャイムの和音。先生は温室を見下ろし、目を細めた。
「母がランやスイカズラを育てていましたが、今はもう何も残っていません」
割れたガラスが散らばっているので、近づかないようにしてください。先生は一言付け加え、私を連れて一階に戻った。
「ごめんね、アキラ。直ぐにお昼にするから」
私は鍋を火にかけ、その間に具材を刻んだ。冷麺なんて、半分は出来合いのようなものだ。先生に道具の場所を教えてもらいながらの不自由な料理だったが、十分そこそこで麦茶まで用意できてしまった。
「意外と手際がいいですね。家政婦さんがいるという話だったのに」
先生が真顔で言うので、つい頬が緩んでしまう。我ながら彩りよく仕上げられたし、味の方も申し分ない。
「森口さんが来てるのは、平日だけなんです。休みの日はいつも姉さんが作ってて」
翔はつゆに浸してから、トマトを口に運んだ。こんなに瑞々しくてしっかりしたトマトなら、翔が進んで食べるのも頷ける。
「それは大したものです」
麦茶を一口はさみ、先生は昼からの予定を話した。回線をつないだ状態で、翔にパイロンの間を歩かせるのだそうだ。飛行訓練に入る前に、テラリウムの中ではつかめない距離感や素早い身体の動かし方を身につけるためだという。
「カケルの翼はもう、飛べる状態なんですよね」
私は居間で待つ翔を見やった。たたんだ翼は肩と腰を覆い、上腕には筋肉が隆々と浮かび上がっている。
「ええ。ただし飛ぶためには、多少の練習が必要です」
皮膜で出来た翔の翼は、鳥ほど軽くも強くもない。飛び上がるためには、助走をつけて風を上手く捉える必要がある。吹きさらしの湖面こそ、先生がこの場所を選んだ最大の理由だ。




