あなたのご両親は……
先生の研究室は、この廊下のつき当たりだ。百日紅を思わせる滑らかな肌色の壁が、うっすらとのどかな陰を滲ませている。奥には小さな窓が開き、翔を推して進むにつれ、朧げな光の中から瑞々しい空が浮かび上がった。初めて見るものばかりの中、四階から見える景色にひときわ心を惹かれたのか、翔はしきりに首を伸ばし、窓の外を覗いている。私が窓際に寄せて歩くと、より沢山の空を拾おうとするかのように、翔は大きく目を開けた。
「近い……」
手を伸ばせば、届いてしまいそうなほど。いや、手が届くときが来たのだ。窓越しに眺めるだけではなく、あの景色の中へ飛び込むときが。
「アキラ、ここだよ」
扉から伸びた半透明な「薬師寺」の標識。赤茶色の扉が、いつもより大きく見える。車椅子を放そうにも、両手の指は重く錆びつき、いうことを聞いてくれない。私はじっくりと息を整え、やっとの思いで手を開き、扉を叩いた。
「お約束していた各木です。今からお邪魔しても構いませんか」
どうぞ、お入りなさい。しっとりと落ちついた声に促され、私は静かにノブを引いた。穏やかなコーヒーの香りが、透明な光に乗って部屋の奥から運ばれてくる。窓際の机についてペンを走らせていた人影が、こちらに振り向いた。
「おはようございます、先生」
教室で会ったときと同じように、私は平坦な挨拶を心がけた。
「おはようございます。各木さん。そちらが、お話にあった弟さんですね。初めまして」
このギムナジウムで基礎生体工学を教えている、薬師寺慧です。先生が立ち上がり、近づいて握手を求めると、翔は恐る恐る手を出した。
「アキラ……です」
これで一つ、心配事が減った。翔が先生を信じてくれなければ、私たちは何も始められない。私にソファを勧め、先生は穏やかに尋ねた。
「各木さん、失礼ながら、あなたのご両親は生体工学に対して批判的な立場をとっておられるのではありませんか」
原因が何であれ、人並みに治療を受ければ歩けるようにはしてもらえる。市が全額負担してくれるものをわざわざ拒むのは、母のような頭でっかちくらいのものだ。先生にも初めから見当が付いていたのだろう。母の名前を伝えると、僅かに顔つきが鋭くなった。
「最初に名簿を見た時から、もしやとは思っていました。ですが、アキラ君が疾患を抱えているにも拘わらず、なぜ彼女は……」
母が反対運動を始めた理由を、私は知らない。生命を弄ぶことは、神と神の作り出した自然に対する冒涜だと街頭では叫ぶけれど。
「普通おかしいと思いますよね? だから母は……アキラの存在を世間から隠しています」
屋敷から一歩も出ることを許されず、身の回りの世話をするのはいつも決まった家政婦だけ。母は翔を、役所に届け出ることさえしなかった。
「再生治療など、母は絶対に許してくれないでしょう。それでも私は、この子を自由に歩かせてあげたい――」
膝の上で、私は青いサロペットの裾を握った。厚く小気味よいパイル地が、手の中で身をよじる。
「それで、生体端末によるオートアニマの交感操作に着目したと、そういうことですね」
流しの脇、サイフォンが勢いよくコーヒーを噴き出した。音を立てて硬質樹脂の曲面を洗う、焦げ茶色の薄衣。
「ならばご存じでしょう。あの実験が、どのような結果に終わったのか」
それは先生が軽傘で、最後に挑んだ研究だ。学会誌に二度ばかり経過報告が掲載されただけで、市民からの反発を受けて実験は中断、まとまった書籍は刊行されていない。
「そしてあなたはアカデメイアを追われ、田舎教師に身をやつしている……ですが先生、こんな結果に、あなたは本当に納得しておられるのですか?」
首を振って諭すのでもなく、拳を握って言い返すのでもなく、先生はただ、深く冷たい憂いをたたえた瞳で私を真っ直ぐ見つめている。先生にとって、あの研究は呪わしいだけの過去に他ならない。崩れ落ちた話の向かい岸を探しているうちに、濁流の水音はいつの間にか途絶えていた。
「いけない、せっかく用意したのにコーヒーのことを忘れていましたね」
アキラ君も、クリームを足せば飲めますか。
きりの良い口実を見つけて、先生は席を立った。私たちに背を向け、歩きだす白衣の背中。いけない。先生が行ってしまう。
「先生、お願いです。どうかこの子のために……駆け回ることのできる身体を、自由な脚を作ってあげて下さい」