広い世界
「いいですね。肉親に尊敬できる人がいるなんて」
私達とは、大違いだ。深い草むらに降り立つと、重たい風が湖から音もなく押し寄せてきた。微かな涼しさの中に、海の匂いが混じっている。
「手伝って下さい」
先生に呼ばれて、私はハッとした。後ろのドアを上げ、先生が荷物を降ろしている。私はレジ袋を提げ、先生についてポーチの階段を昇った。柱も庇も壁も扉も、皆一様に白く塗られている。バケーションに来たのではないかと、錯覚してしまいそうだ。
朧げな懐かしさに立ち尽くす私をよそに、先生はレジ袋を下ろして、玄関の鍵を開けた。灯りの消えた家の中を、窓から差し込んだ光の余韻が満たしている。
「お邪魔します」
調理台の上にレジ袋を乗せ、私はキッチンを見渡した。生体化されていない、電気とガスの家だ。
「驚いたでしょう? 見たことがないものばかりで」
私が頭を振ると、逆に先生が目を円くした。
「うちも電気の家なんですよ。母が無理矢理建てさせたとか」
生体工学を家から閉め出すため、母家の倍も工賃を払い、母は家まで電線を引かせた。そして何より恐ろしいのは、莫大な電気代を賄えるだけの御寄附が母の元に集まってくるということだ。
「街中でわざわざ電気を使うなんて。流石にそこまでの執念は私にもありませんよ」
肉をチルド室に放り込み、先生はため息をついた。この家が建てられたのは金属が高騰する前かもしれないけれど、電気代まで安くなる訳ではない。ガソリン喰いの四駆といい、私からすれば先生も十分享楽的だ。
食料品を分別して冷蔵庫を満杯にすると、私達は翔を迎えに戻った。荷物はあらかた下ろしたので、床に敷いていた鉄板が動かせる。ポーチと車の間に二人がかりで鉄板をかけ、私は後ろ向けに車椅子を引っ張り出した。
「広い……この辺りにいるのが僕達だけだなんて……」
リビングからウッドデッキに出ると、湖を見渡せた。夏の日差しを受けて輝く水面。向う岸まで続く深緑の山々。風に揺れる草木の囁き。窓の外に広がる世界に翔を連れ出せただけでも、この旅行には大きな意味がある。
「良かったね、アキラ」
翔は飽きもせず、ひたすらに景色を眺めている。それとも翔には、既に見えているのだろうか。湖の上に広がった空を、自由に飛び回る翔の姿が。