小旅行が始まる
先生が実験場所に選んだのは、福井にある湖畔の別荘だそうだ。向かい岸にはキャンプ場もあるが、隣家までは2キロもあるらしい。別荘の準備は先生に任せ、私は母に隠れて2人分の着替えや洗面具を準備した。
「見つかったらどうするんですか。乗り替え場で待っていればよかったのに」
先生をなじりながら、私はミラーに映った顔を睨んだ。
「大丈夫でしょう。勝手口にはカメラがなかったみたいですから」
家までわざわざ迎えに来るなんて、暢気にもほどがある。家の中には誰もいなくとも、母が見張りを付けているかもしれないというのに。
「しかし、アキラ君を乗せた後、本当にもう一往復してキャリーバックを持ってくるつもりだったんですか?」
近頃の若者は元気ですね。先生は車の窓を開け、呆れ顔で憎まれ口を叩いた。あの顔を見て、一瞬でも助かったと思ってしまった自分が恥ずかしい。
「今更それくらいのことで音を上げたりしません」
先生と目が合わないように、私は窓の外を眺めた。郁美達は、今年どこに出かけるのだろうか。福井に入ってからというもの、私の席から見えるのは変わり映えのしない山中の景色だけだ。
「……どんな所なんですか? 三方五湖って」
しばらくして、ためらいがちに翔が尋ねた。
「静かで綺麗なところですよ。湖のほとりにいくつも梅林があって」
原発が止まってからは俄かに過疎化が進み、かつては点在していた集落も今では空き家ばかりだという。
「それなら、カケルを沢山飛ばせますね」
翔のケージは、助手席の足下に押し込まれている。初めて乗る自動車だというのに、随分と大人しい。神経が図太いのか、それとも弱っているのだろうか。
「ええ。この実験は今日を含めて5日しかありません。向うについたら、練習に取り掛かりましょう」
最初から二人とも、考えていることは変わらない。翔を早く飛ばしたくて仕方がないのだ。私は溜息を高速に放りだし、二人に釘を指した。
「向うに付く前に買い出しを済ませるべきかとも思いましたが、そういうことなら話は別ですね」
一つ前のインターで高速を降り、私達はくたびれたスーパーに立ち寄った。当たり前だが、街の外では何でも頼んですぐに配送というわけにはいかない。今日明日の食材に加えて、洗剤と調味料まで買っていく必要があった。とりわけ洗濯のことは先生にも盲点だったらしい。
「中々よい着眼点ですね」
先生からこんな賛辞を頂くのは一生に一度かもしれないのに、これでは素直に喜べない。前もって準備を進めていたという別荘がどうなっているのか、今から思いやられるというものだ。
田舎町を出て暫く走ると、細い湖岸道路に出た。まだ民家やボート小屋が所々で永らえていて、ひと気がないとまではいかない。湖を横手に走り続け、下草だらけの林道を突き進んだ末に、漸く白いコテージが現れた。
「すごい……これが先生の、秘密基地ですか」
森の湖畔にひっそりと佇む謎めいた一軒家に、翔は眼を輝かせた。おとぎ話にはぴったりかもしれないけれど、新品ではないようだ。よく見れば所々でペンキが剥がれ落ち、温室のガラスは大半が割れている。
「秘密基地という表現は的確です。地下でスーパーロボットを開発してますからね」
よほどその呼び名が気に入ったのか、先生は軽口を付け加えた。私達がこれからやろうとしているのが生体実験だということを思えば、ロボットの方がまだしも健康的かもしれない。
「またそんなことばかり……それにしても、よく見つけられましたね」
手続きだって、すぐには終らない筈だ。先生の使った手品は、しかし、驚くほど単純だった。
「ああ、この家は今回用意したものではないんです。父の遺産ですよ」
先生のことを調べはしたけれど、家族のことは何も知らない。由緒正しいお家柄だったとしても、何の不思議もないけれど。
「お父さんは、何をなさっていたんですか?」
先生とこんな話をするのは、本当に初めてだ。 家の前を通りすぎると、先生はバックしてポーチの正面に車を停めた。
「生体工学の研究者でした。父はずっと、一番の目標だった」
見慣れた笑顔に浮かんだ憧れの色に、私は眼を奪われた。見ているだけでなんとなく、きっと二人が同じ夢を追いかけていたのだと納得してしまうのだ。