郁美は気づいていた
六月が近づくにつれて天気の悪い日が増え、翔を連れ出す機会が回ってこない。偶に先生の家から帰ってくると、翔は私に話をせがんだ。実験体は、今、どこまで成長しているのか。実験はどこで行うのか。私もビデオを見せてもらってから、次の密会までの間、ぼんやりと考える日々が続いている。
一方で実験の日取りについては、ある程度話が進んだ。この八月には、ジュネーブで生命倫理の世界大会がある。母が家を留守にする一か月の間なら、実験に長い時間を取ることができるだろう。私は表を眺め、少しだけ水を飲んだ。
「待った?」
全然。私が首を振ると、郁美はトレイをテーブルに乗せた。
「それにしても、凄い人気だったね。冷やし中華」
ラーメンのコーナーには、まだ行列が残っている。
「まあ初物だし、幟見たら食べたくなっちゃうでしょ」
お互いに向き直り、私達は冷やし中華に手を付けた。久し振りに食べると、酸っぱさがやけに新鮮だ。
「愛紗、最近なんか変わったよね。シースルーのシフォンなんて、前は絶対着なかったし」
土日は用事で一杯らしいし。上目遣いで伺うと、やはり郁美はほくそ笑んでいる。
「違うよ、これは前から着てみたいと思ってたの」
ミゥにも載ってたやつでしょ。郁美が相手では、笑ってごまかすにも限界がある。何も言い返さず黙々と食事する郁美を、私はそれとなく何度も確かめた。
「……でさ、この間は付き合ってないって言ってたけど、実際のところはどうなの?」
慌てて麺を啜ると、大きなハネが飛んだ。真っ白なシフォンに穿たれた茶色い染み。私は声を上げ、ホルダーからウェットティッシュを何枚もまとめて引き抜いた。
「郁美も知ってるでしょ。あれはアキラを連れてってて、私は違うんだって」
何度叩いても、滲むばかりで染みは消えない。涙をこらえながら、私は手を動かし続けた。
「なんだ、心配して損した」
郁美のため息に、私は思わず顔を上げた。本当に、今ので郁美が納得するものだろうか。
「心配って……何? 本当に私がそんな血迷ったことすると思ってたの?」
郁美は両手で、私の剣幕から顔を庇った。
「ごめんごめん、そんな筈なかったわ」
つゆに浮かんだ金糸卵の欠片を弄ぶ、黒い箸。
「でもね、私が心配してたのは……なんていうかな、愛紗の片思いみたいになってたら嫌だな、と思って」
そんなことない。角張った言葉は、喉を削りながらお腹の底に転がり落ちていく。
「それ、どういう意味?」
現に先生は私を大切にしてくれる。翔を受け入れてくれた、優しい人なのだ。どうして郁美には、それが分からないのだろう。私が見守る中、郁美は何度か私の顔色を伺った。
「愛紗、いつもアキラ君のことばっかで、自分のことは何でも後回しにしちゃうからさ」
骨のない独り言を呟きかけたきり、郁美は黙り込んでしまった。いつの間にか、周りに空席が増えている。温くなった冷やし中華を片付けようとしたものの、度々手が止まってしまう。
「ごめん、私、次のコマもとってるから」
半分近い麺をシンクに流し、私は学食を逃げ出した。




