龍の身体が、出来てゆく
「研究室? ここにはいないんですね、じゃあ」
翔が肩を落とすのを見て、先生は優しく肩を叩いた。
「代わりにビデオを撮ってきました。それに多分、現物を持ってきても小さ過ぎて見えないでしょう」
車椅子のタイヤを拭いて翔を部屋に上げると、先生は私の代わりにハンドルを握った。三日前に核を注入したところで、今はオタマジャクシのような形をしているという。
「見ます。ファイルは?」
私は一番下の棚からクッキー缶を取り出し、コーヒーカップにお湯を注いだ。
「今送ります――届きました? 飛翔体チ:0-60」
視界の右下に、黄色い字で新着が表示された。翔はもう開いたのか、じっと宙に見入っている。お菓子鉢を用意して、私は先生にキッチンを明け渡した。
「あ、何か出てきた……え? ミミズ?」
原条が形成されたのだろうか。ニワトリの発生なら見たことがないわけでもないが、実験体のゲノムはオリジナルとかけ離れている。私はソファに腰かけ、ウィンドウを目一杯広げた。
「原条っていってね、周りから細胞が集まってきてるの。私の画面ではまだだけど……」
赤外線カメラを使ったのだろう。緑色の画面に、丸い染みが映っている。やがて染みの端から滲んだ影が、真っ直ぐ上に向かって伸び始めた。
「二日目までは、ニワトリと大差ありません。外見上の違いが見られるのは肢芽の形成以後ですね」
原条の先端に瘤ができ、その後ろに櫛の歯が並んでゆく。
「本当だ、オタマジャクシみたい……頭がT字ですけど、これはこういう形なんですか?」
ソーサーの上で、スプーンが揺れる音。とりあえず会釈をすると、ウィンドウの外にカップが見えた。
「今頭に見えているのは神経管です。突き出た部分の先に、目が出来るんですよ」
そろそろ、問題の肢芽が生えてくる頃だ。頭と翼の間に付け足された、もう一対の肢。固唾を飲んで見守っていると、オタマジャクシの両側に三対の瘤が盛り上がった。
「思っていたより均等……というより、前脚が頭のすぐ後ろに来てませんか?」
私が尋ねると、先生は隣に腰を下ろした。
「翼の位置はそのままで、翼の五体節分前方に前脚の肢芽が形成されるようにしました」
手足の配置は、主にhox遺伝子によって決められる。hox遺伝子はDNAを選択的に読み取る転写因子というタンパク質を作るための遺伝子だ。aからdまで四つのグループを持ち、それぞれに十以上の種類がある。先生は今回hoxc8の転写に関わるNOGGINの受容体を増やすことで、hoxc6発現領域の前後に跨るようhoxc8発現領域を延長したそうだ。
「各部のバランスは、発生が進むにつれ成体に近づいて行くのでご安心ください」
先生がこちらを見て笑うので、私はなるべく渋い顔でコーヒーを口にした。
「どうやって前脚にするんですか? 他のhox遺伝子? それとも、他のtbxのパラログとか?」
翔ときたら、いつの間にこんな知恵がついたのだろう。これではまるで、生体工学科の男子だ。翔にクッキーを薦め、先生は再び解説を始めた。
「重要なのは、転写因子よりもその標的であるfgfファミリーとbmpファミリー、及び両者の受容体の量です」
FGFというのは、四肢の発達において、組織の伸長を促進する一群の誘導体だ。BMPは逆に増殖を抑制し、指の間の組織を自壊させる。指の軟骨が形成されるのは、これらの誘導体が相互に抑制し合い、パターンを形成するお陰だ。
止まったままのビデオを閉じ、私は新たに送られた図を開いた。各段階の自脚に、FGF8,4とBMP2の濃度勾配が表示されている。紫色の濃い部分が、皮膜になる部分だ。
「本来の誘導体、受容体の遺伝子とは別に新たな遺伝子を組み込み、さらにこれらをHOXC9タンパク質と共役してジメチル化する酵素を追加します」
新たな遺伝子は既存の遺伝子と同様にHOXD9-13によって転写される。結果としてFGF4,8とBMP2の閾値が変化し、翼における最終的な濃度勾配はイヌワシと一致するのだという。
白い天井を見上げ、私は溜息を吐いた。一か月前は夢物語だったというのに、このまま放っておいても、本当に竜が生まれてきてしまいそうだ。
「これでも手を抜いている方ですよ。最初は、パラログを増やさずともスプライシングだけで前脚と翼を切り替えるつもりでしたから」
謙遜するにも得意気なのが憎たらしい。私達が睨み合っている間、翔はクッキーをかじり続けた。
「先生、この子はいつ頃生まれますか」
しばらくして翔が尋ねると、先生は窓の外を伺った。空は久し振りに晴れ渡り、穏やかな日差しがカーテンを揺らしている。
「後一か月くらいはかかりますね。それまでに、実験の準備を進めていきましょう」




