先生の部屋
「少々お待ちを。タオルを取ってきます」
先生の家のタオルは、ふっくらとして、陽だまりの匂いがする。洗濯槽に冷たい服を放り込み、湯船に体を沈めると、手足にぬるま湯の熱さが沁みた。まだ、何も分からない。家に戻った後、どうするべきなのか。母さんに会ったとき、何と言うべきなのか。私が上がって来た時にも、私の服は熱風に揉まれていた。乾燥が終わるには、もう少し時間が必要だ。ネル織のラップコートを身につけ、私は風呂場を後にした。
「コート、大きすぎませんでしたか?」
リビングは薄暗いけれども、研究室と同じ、コーヒーの香りがする。ソファーの上で膝を抱え、私は灰色の空を見やった。
「大きいけど……こうしてうずまっていると、少しほっとします」
先生からマグカップを受け取り、私は優しくコーヒーに息を吹きかけた。光の襞がカップの中を滑り、淡い湯気は空に解けてゆく。手のひらから伝わる静かな温もりを確かめ、コーヒーを少し口にした。
「これが潮時でしょうか。まだ前金にも手は付けていませんし、今ならまだ引き返せます」
今までの苦労が不意になったというのに、私は胸をなで下ろしていた。このまま実験を続けていたら、取り返しのつかない結末を迎えていたかもしれない。
「実験が明るみに出るようなことになれば、その時点で何もかもがお終いです」
だが――肩の荷が下りると、別の不安が這いあがって来た。翔にどう伝えるのか、まだ何も考えていない。翔はとうの昔に、この実験に憑りつかれていた。母が作った鳥籠の中に漸く差し込んだ光を、私が取り上げてしまったとしたら。翔はもう二度と、私のことを信じてはくれないだろう。
「こんなことになるなら、初めから何もしなければよかった」
そうすれば避けられた筈だ。翔を無駄に傷つけることも、先生に奪われることも。溜息をつき、冷めたコーヒーを飲み干すと、後には苦味だけが残った。




