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家に帰りたい

「それが自分の、轢いた被害者に、対する、態度ですか」

 態々立ち止まった私が、間抜けだったということなのだろう。気にせず走り続けるだけでも、痛い目に合わずに済んだのだから。

「お気を悪くなされたのなら、謝ります。とかく脳が心配だったものですから」

 先生が背中を丸め、目を泳がせるのを見て、私は目を疑った。たとえ規制派のデモ隊に取り囲まれることになっても、この人が狼狽えることなどありえない。それが今、目の前で起きている。

「無論、怪我をさせてしまったのは私の失態です。助けに来た筈が、本当に不甲斐ない」

 助けに来た。実験のことばかりで、身勝手な先生が。何の返事もできないまま、私は目を瞬かせ、それからまた先生を眺めた。調子のいい嘘だと、一蹴してよいものだろうか。思えば翔を初めて見た時も、蔑むことも憐むこともなく、翔の願いに耳を傾けてくれた。

「……真に受けないで、ください……却って困ります」

 目を閉じて、私は息を整えた。合皮のシートを通して、道路の気配が伝わってくる。尾を引く水飛沫の音。穏やかなエアコンの息遣い。逃げている途中だとは、とても信じられないほどの静けさ。

「まだ追ってきますか」

 私が尋ねると、先生は首を振った。

「今のところ、追ってくる車はありませんね」

 随分あっさりと引き下がってしまったらしい。この車も、大周りして街に戻る途中だという。起き上がって外を眺めると、荒れ果てた家並が広がっていた。自給都市の外では、残された僅かな資源で人々が永らえている。生体化は急ピッチで進められているというけれど、一体いつになればここまで回ってくるのだろう。

「車……」

 街並みが流れてゆくのをぼんやりと見つめていると、見知らぬ呟きが零れた。

「意外でした。先生は自動車なんて、乗らない人だと思ってたから」

 街はずれの駐車場まで水上タクシーで向かってから車に乗り替えるような物好きは、母達くらいのものだろう。車やアウトドアの好きな人なら、そこまでして元が取れるかもしれないけれど。

「野外での実験に使うんですよ。この車なら大きな機材も積めますし、後は――」

 話の続きは、赤信号に遮られてしまった。

「後は?」

 実利以外で、先生が車を持つ理由。からかう種くらいにはなるだろうか。

「福井の湖畔に別荘があるんです。長い休暇や、仕事の追い込みがある時には向うで過ごすことの方が多いかな」

 何のことはない。同級生が先生に期待する、優雅な余暇の過ごし方そのものだ。返事がないのを訝しんだのか名前を呼んだ先生に、私は偽らざる想いを打ち明けた。

「期待して損をしました」

 動き出した車に揺られていると、寂れた街並みの向うに一本の木が見えた。いつもは見上げるばかりで、遠くから市庁舎を眺めるのは随分と久し振りだ。

「別の乗り替え場から入りましょうか。単なる気休めですが」

 街を出てゆくという選択肢が、初めから私にはない。家出したところで行くあてなどどこにもないし、翔を一人残していけばきっと後悔するだろう。

「はい。あの駐車場に戻るのは……」

 あの男は逃げた後だと分かっていても、あの場所には何かが残っているような気がする。私は背を丸め、自分の肩をやんわりと抱いた。頬を這う髪。掌にめり込んだ砂利。鼓動に合わせて疼く右肩。冷たく湿ったサマーニット。脚に吸いつくシフォンのインナー。スニーカーの中に出来た、かび臭い水溜り。寒い。早く帰りたい。待っているのが母だとしても、あの家には私の部屋がある。

「……あの男は、やはり母の差し金でしょうか」

 アキラを連れ出すのを止めたところで、疑いが晴れる筈もなかった。ほとぼりが冷めたら打ちあわせを再開しようなどと、我ながらおめでたいことを考えたものだ。

「断言はできませんよ。反対運動には多くの人々が参加しています」

 それよりも。怪我の具合を尋ねられて、私は右腕を上げてみた。

「動きます。痛いけど、骨じゃないみたい」

 思っていたのと違って、実際に腫れているのは肩の少し下の部分だ。

「念のため、病院に寄りますか?」

 街に帰るのが分かって最初に思い浮かんだのは、子供じみた駄々だった。

「病院より、家に帰りたい。お風呂に入って、新しい服に着替えたい」

 本当は全うな診察を受けるべきなのだろうが、先生は何も言わずに我儘を聞き入れた。

「近い乗り替え場に停めましょう。各木さん、お宅はどちらに?」

 稲荷坂と答えると、先生は表情を曇らせた。

「参ったな。丁度街の反対側ですね。それに、水路までかなりあるのでは?」

 言われてから、私は自分の身体を見下ろした。ノースリーブの肩には赤い当て布、シフォンスカートの裾には歪な泥のマーブル模様。目一杯首をひねると、ニットの背中が小汚く擦り切れ、ほつれた生地の下からオレンジ色の肩紐が覗いている。こんな格好を隣近所に見られたら、母が何を言いだすか分からない。何しろあの界隈では、ずぶ濡れでうろつくだけで悪い噂が立つのに十分なのだ。

「郁美のアパートはギムナに近すぎるし……ああ、そんなこと言ったら、家にだって森口さんがいるじゃない……」

 私が一人でぼやいていると、出し抜けに先生が提案した。

「それなら家を使って下さい。着替えはご用意できませんが、コートくらいはありますよ」

 正面から高架が近づいてくる。外縁水路をまたぐ橋だ。

「罠に追い込まれた気分です」

 話している間に、車は高架を登り始めてしまった。眼下に伸びる水路。行き交う貨物艇と水上タクシー。水路を越えてしまうと、そこはもう乗り替え場だ。私は目を閉じ、覚悟を決めた。

「この乗り替え場の近くに部屋を借りています。この時間なら、まだ人目にはつかないでしょう」

 車から這い出した私を見て、先生は唇を結んだ。

「こんなに……傷の手当てをしなくては。さあ」

 差し出された傘の下は、心なしか暖かい。駐車場に面した八階建てのマンションへと、私は案内された。入ってすぐの吹き抜けには青白い光が満ち、天井まで二本のエレベーターが伸びている。海の底を思わせるこのホールの六階に、先生の部屋があった。

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