足音がつけて来る
あくる日の講義が終わっても、先生は私に話しかけてこなかった。研究室に戻るわけでもなく、そそくさと一人ギムナの裏門に向かう白衣の背中。捕まえて問い詰めるつもりが、目的はいつの間にか先生の足取りそのものになっている。
タクシー用の水路は、ギムナの表側にしかない。裏手に広がるのは、ひっそりとした工業団地だ。冷たい光沢を帯びたキチン質の壁の向うではライン上のオートアニマが働くばかりで、人が出入りするのは点検の時くらいのものだろう。先生はこんな所に、一体何の用があるのか。厚く垂れこめた雲の下、窓もない工場の間を進んでいくうちに、私はあることに気がついた。
先生と私以外に、タイルを叩く足音がある。
まさか。冷たい慄きが額から零れ落ち、私の足を釘づけにした。足音は一つだけ譜面からはぐれたきり、二つ目が聞こえてくることはない。
工場に用事があるなら、立ち止まる理由などない。先生か、それとも私か。とうの昔に、母には見抜かれていたのだ。
竦んでいる間にも、白衣の背中は角を曲がり、裏道に消えてゆく。私も、行かなければ。気持ちは辻の先へ先へと急き立てられているはずなのに、足が重くて動けない。薄暗い風が、シフォンスカートの中に流れ込んでくる。大きく息を吸い込み、やっとの思いで足を踏み出した途端、静けさの中から再びあの足音が現れた。
一歩、また一歩とぎこちない歩みを重ねる度、もう一つの足音がゆっくりとついてくる。駆け出したい気持ちを堪え、私は少しずつ歩幅を広げた。
速まる足。強まる足音。前髪を叩くまばらな雨。母の仲間なのか、それとも人を雇ったのか。母はどこまで気づいていて、一体何を調べさせているのか。初めは早歩きだったものが、次第に小走りになり、気づけば必死で地面を蹴っている。足音を探すどころか、鼓動が肋骨を打ち付け、息が喉を削る音しか聞こえない。
光だ。裏道の奥に、広そうな通りが見える。助けを求めて、私は叫びながら走った。通りが近づく。裏道が終わる。助かった。路地裏から飛び出し、大慌てで表を見渡して、私は愕然とした。
街はずれの駐車場。降りしきる雨の中、自動車が並ぶばかりで、人影は見当たらない。裏道から現れたダークスーツの男が目に入り、私は再び走り出した。
路面は厚い飛沫に覆われ、靴が水に沈む度に大きく泥水が跳ね上がる。駐車場の奥に見える、白く滲んだ運河の土手。水上タクシーの停留所なら、今でも人がいるかもしれない。息を切らして、それでも走り続ける私を、俄かに鋭い光が包んだ。
気が遠くなるほどに、長いクラクション。振り向いた拍子に、私は思わず足を止めてしまった。大きな二つのライトが、私を見つめている。
したたかに打ち据えられ、地面に転がった私が感じたのは、右肩に焼き付いた重く深い痛みだった。車は少し離れたところで、私と並んで停まっている。車の方が避けたからか、正面からは当たらなかったらしい。
「各木さん!」
ドアを開けて出てきたのは、なんと薬師寺先生だった。
「どこを打ちましたか? 頭と首は?」
私が腰から上だけを起こすと、先生は駆け寄った。
「肩が……じんじんします」
他には何も思いつかない。骨から湧き上がる痛みと熱で、とっくに頭はいっぱいだ。
「乗ってください。動かすのも良くありませんが、とにかく急いで」
先生に助け起こされ、私はふらつきながら、後部座席によじ登った。私を押し込むが早いか、後ろのドア、前のドアと立て続けに音を立てる。シートに私を横たえたまま、車は乱暴に走り出した。
「各木さん、肩以外に打ったところはありませんか?」
ミラー越しの短い眼差し。肩の痛みに慣れるに従い、他の傷が喚き出していた。手首に肘、足首は擦り傷だろうか。腰にも痣ができているかもしれない。私が答えると、緩い溜息が返って来た。
「クモ膜下出血の心配はなさそうですね」
ミラーの中の先生を恨みがましく睨みつけたが、生憎今は運転に忙しいらしい。なけなしの声を振り絞り、私は毒づいた。




