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不安と後悔

 ところがそれから暫くして、先生のことを避けるどころではなくなってしまった。先生の方から人前で私を捕まえて、翔の様子やら、母の動向やら、復帰の目途やら、ひっきりなしに尋ねてくるのだ。

「僕の作業も随分と進んでいますから、アキラ君にも一度報告しておかなければなりません。fgfrの記述も七割程度終わっていますし、もうこのままでも前脚が生えてくる状態ですよ」

 人目を憚ることを覚えていたなら、この人はまだ軽傘で研究を続けていられたのではないだろうか。短い溜息を挟んで、私は先生を追い払った。

「とにかく、まだアキラを連れ出すのは危険です。進捗のことは、私から伝えておきますから!」

 先生も大人なので、こう言えばひとまずは引き下がってくれる。それよりも厄介なのは、家にいる子供の方だった。

「姉さん、いつになったら、先生と会えるようになるの?」

 翔の聞き分けが良かったのも、今ではすっかり昔の話だ。二人きりになるとすぐ、実験のことばかり尋ねてくる。

「母さんが怪しまなくなったら。でも、ゲノムの打ち込みは進んでるみたいだから、心配しなくても大丈夫だよ」

 報告があるということこそ、私達が行かなくとも作業は勝手に進むという、何よりの証拠ではないか。翔の前に、誰か私を宥める人が必要だ。

「進んでるって、どれくらい?」

 また新しい質問だ。笑顔を繕いながら、私は雑多な記憶を漁った。

「そう……確か、fgfrは半分以上書けてるとか……」

 そんな話を聞いたような気がする。先生が最後に取り掛かったのは、前脚を形成するための受容体のコードだ。

「……前脚を作るためのコードは、もう出来上がってるみたい」

 望み通りの答えを引き出すと、翔は車椅子を巧みに操り、窓辺にぴたりと漕ぎ着けた。初夏の日差しを浴びて、鮮やかな緑の樹冠が家々を彩っている。家並の奥にそびえる大木が、街の中央管理棟だ。

 私はそっと翔の肩に手を置き、ガラス越しの通りを眺めた。こんな当たり前の風景が、この子にはどれだけ遠く見えていることか。私は耐え切れずに目を伏せたが、そこには閉めきられたガラス窓の鍵に向かって、真っ直ぐ伸びる手があった。

「あと少し、あと少しで、実験が始められる」

 半ば体を窓に預け、左手を突っぱねるようにして、翔は懸命に鍵を求めている。痛ましい眼差しで、額に汗を浮かべながら。

「アキラ!」

 車輪がリノリウムから浮き上がっていることに気づき、私は慌てて鍵を開けた。

「危ないよ。あんなに身を乗り出すなんて」

 翔が力なく腕を下し車椅子に納まると、私は落ちかかった毛布をかけ直した。翔はぐったりと項垂れ、横目で窓を見上げている。

「無理しなくても、お姉ちゃんが開けてあげるから」

 けれどもそれは、正しいことだったのだろうか。先生の拘りようが、どうしても髪に引っかかる。もしあの脱線が、翔の願いを叶えるための遠回りではなかったとしたら。先生が楽しむための寄り道ではなかったとしたら。私の知らない目的への、近道だったとしたら。湿ったTシャツが、じっとりと背中に憑りついた。

「無理って……窓を開けるだけのことじゃないか……」

 外を見やる翔の眼差しを見て、私は漸く翔の見ていたものに気づいた。窓枠に切り取られた、あまりにもちっぽけな空。私がいない昼間、翔はいつもこの空を眺めていたのだろうか。微かな風はレースのカーテンを揺らし、私には見えない声で翔の心を呼んでいる。

 私の開けた窓は、その実翔を突き落とすための罠だったのではないか。彷徨うほどに疑いは深く立ち込め、私はついに先生を問い質そうと思い立った。

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