母さんが許してくれないよ
約束の時間まで、後五分。ギムナは丁度一限目が終わったところで、校舎のそこかしこから人が加わり、流れを作りかけていた。
「愛紗」
図書館の入り口で、郁美が手を振っている。手を振り返してから、私は翔に顔を近づけた。
「アキラ、ゴメン。お姉ちゃん、ちょっとだけ友達と話してきてもいい?」
うん、大丈夫。硬い顔で頷く翔に、胸の奥で鎖が軋んだ。こういった人混みに、翔はあまり慣れていない。翔を一人置いてゆく後ろめたさに、私は度々振り向きながら歩いた。
「あれが例の弟君? 良かったね。OK出たんだ」
家人を除いて、郁美は翔を知るたった一人の人間だ。今度の件も、他の誰にも話していない。
「先生はね。とりあえず、会ってくれるって。……母さんには、内緒で連れ出してきちゃった」
一人で用意できたのは、みすぼらしい手押しの車椅子だけだった。道行く人は物珍し気に、一人、また一人と翔を振り返る。
「じゃ、頑張んなよ。代わりに出欠書いといたげるから」
傍目にも、きっと私はひどく狼狽えているように見えたのだろう。郁美は私の肩をつかみ、翔のところまで送ってくれた。
「郁美、ありがとう。何から何まで」
車椅子の持ち手を握ると、少しだけ息が軽くなった。
「いいのいいの。それより、ゴメンね。お姉さんのこと、呼び止めちゃって」
郁美が翔に話しかけたので、私は思わず二人を見比べてしまった。初対面の人に迫られて、翔は大丈夫だろうか。郁美は? もし翔が粗相してしまったら。きっと嫌な思いをさせてしまう。私の心配をよそに、翔は平然としていた。
「気にしないでください。別窓でゲームをしていたので」
何のことはない。翔には初めから、人々が向けていた無遠慮な眼差しは一つも見えていなかったのだ。
「よかった。私は郁美。愛紗の友達だよ」
車椅子の翔を見ても、郁美は訝しがりも、迷惑がりもしない。身だしなみや礼儀作法では装うことの叶わない、気高さを備えている。本当に育ちがよい人というのは郁美ような人のことだと、時折思い知らされるのだ。
もし私が他人だったなら。それまで一度も、翔のような人を見たことがなかったとしたら。私はきっと、目を伏せてしまうことだろう。郁美と別れ、研究室に向かう途中、私はぼんやりとそんなことを考えた。
「姉さん、今日会う先生って、どんな人?」 手元に浮かんだ数字の中から4を選ぶと、冷たい銀色のフェンスが閉まり、くぐもった水音が聞こえ出した。操錘槽の水位が下がるにしたがって、吊り上げられてゆく鋼の鳥籠。
「優しくてね、すごく頭のいい人だよ。軽傘のアカデミーで研究してたこともある、とっても偉い学者さんなんだって」
薬師寺教授は文字通り、生体工学の権威と呼べる人物の一人だ。そしてその中でただ一人、名門と呼ばれるアカデミーに属していない人物でもある。彼がこの街で教鞭をとっていることを知ったとき、私の志望校は既に決まっていた。
「そんな人が、僕に一体何の用があるんだろう」
半袖のカッターシャツにはおおよそ釣り合わない、膝にかかった紺の毛布。この子から奪われた脚を、私はずっと探し続けてきた。
「実はね、アキラに内緒で、先生にお願いしていたことがあるの。今日はそのことでお話があって来たんだ」
翔は頭をのけぞらせて、私の顔を見上げた。いつものように冷めてはいても、翔の瞳は子供らしい好奇の光を灯している。
「お願い?」
万一断られたときのことを思い、翔にはまだ話していない。胸一杯に息を吸い込み、私は翔に打ち明けた。
「そう。先生はね、アキラを歩けるようにしてくれるかもしれない」
翔の返事はない。ただ水音だけが、次第に足元へと遠ざかってゆく。
「母さんが、許してくれないよ」
雲間から刺した光も、じきに母の陰が覆ってしまう。俯いた翔の髪を、私はそっと撫でた。
「大丈夫。母さんには分からないようにしてくれるから。手術も入院もしなくていいんだよ」
両側を流れていたケーブルが音もなく止まり、鳥籠の出口が開け放たれた。
「手術しないって――」
それでは翔の体を治してあげることはできない。最もたやすくくびきを免れる術が、私たちには禁じられていた。
「詳しいことは、先生が説明してくれるよ」