歴史12 獣の本能 人の感情
ドラゴンの体に起きた異変に警戒心を高める先遣隊の者達が、いつでも動けるようにと、下半身に力を集中させる。
驚異的な踏み込みによって泥が舞い上がった刹那、嵐の中で激しく乱れる突風を丸ごと押し返して突き飛ばした事を肌で実感させる程の速度でドラゴンが進撃するが、体勢と意識の両方の重点を回避に置いていた戦士達は紙一重で攻撃を躱す事ができた。
『躱した……!かろうじて…なんて速度……!今までは本気じゃ無かったのか!?』
ドラゴンの全力を目の当たりにしたグレントの心中に、恐れを通り越して畏怖の念すら湧き上がる。
それは他の者も同様だったが、瞬きすら憚られる濃縮した時間の中、彼等は瞬時に意識を切り替える。
ドラゴンが獲物へと振り返り、再び高速で襲い掛かるが、回避に全神経を集中させた鬼人族が横に跳んでそれを躱し、回避の為に離れたオーガ以外の皆が、全力の突進によって生じた硬直で次の動作が遅れるドラゴンへと距離を詰める。
負傷した狼人族は、片腕の為に攻撃能力の落ちた自分が、急所を攻める味方の場所を取らないように、ドラゴンの前脚を狙う。
千切れたのも同然の状態である皮一枚で繋がる左前脚は無視して、ぽっかりと穴の開いた右前脚に十字刃を捻じ込んで、右前脚を潰すつもりだった。
グレントも同じく急所である首を狙う者同士で動けるスペースを必要以上に狭めてしまわぬ様に動く。
急所狙いではないものの確実に敵の戦力を削ぐ為に、視界を完全に奪うつもりで残った左目へ向かい、3人の吸血人族は首を切り落とすべく一直線に突き進む。
それぞれ別個の身体を持つ者達なれど、まるで一つの意志であるかのように、特に呼吸を合わせた訳でもなく、まったく同一のタイミングでドラゴンへと接触する。
敵に反応したドラゴンが振り返るが僅かに反応が遅れる。
攻撃を躱せなかったドラゴンだが、それでも好き放題やられた訳で無い。
負傷を減らそうと身を捩り狙いを逸らす。
傷口の内側から右前脚を壊そうとした十字刃の槍は、数枚の鱗を剥いで皮膚に擦り傷を付けただけで後は鱗の上を滑る。
急所へと振るわれた3本の刃は首には命中したもののドラゴンが直前で身を捩っていた為に本来狙った箇所である傷口には到達せず、新たな傷を刻むが柔軟かつ堅牢な首は一振りでは切り落とせない。
両足で顔を挟み込み、張り付いた状態で左目を狙って突き出した穂先は空を切る。
武器を振るうが大したダメージを与えられず、狙いが外れ、強靭な肉体で刃を止められ、助走による勢いも死んだ今、これ以上の深追いは危険だという力でドラゴンが暴れ出すのを両足から感じ取ったグレントは、空を切った十字刃の槍を翻し下方から斜め上に斬り上げる動きで、ドラゴンの鼻先を削ぎ落とした後すぐさま離脱する。それと同時に、他の者もドラゴンから距離を取った。
「ギャッ!!?…ゥゥウゥゥ……ギョオォオオオオオ!!ハルルルゥア"ァ"ッ!!!」
全力突進後すぐさま急廻転という滅茶苦茶な全身運動によって生じた硬直から解き放たれたドラゴンが暴れ出す。
暴れ出した主たる要因は激怒や憎悪と言った感情的なモノだったがその動きは正確で、片腕を負傷した獲物へとトドメを刺すべく振るった皮一枚で繋がる左前脚が、弱者である立場の者によって逆に切り飛ばされてなお動じず、痛みを無視して続け様に右前脚を振るい、それを躱して背後へ跳んだワーウルフをしつこく追撃し、ラレルの木と自身の右肩とで挟み込んで押し潰す。
衝撃で大木が揺れグラリと傾き、更には荒れ狂う雨風で少しずつ本来の角度からズレていった大木が、少し間を置いて倒壊し、ワーウルフの血糊が地面の泥と混ざる。
心の奥底から湧き上がる激情を噛み殺し、脳内の別の場所へと一時的に区分けした戦士達が、あくまで冷静に、確実に、自身等に背を向ける形になるドラゴンを狩ろうと動くが、暴れ出すドラゴンから飛び退いたばかりの彼等が体勢を立て直して動き出すよりも早く、万全な姿勢で走り出していたオーガが他の者より前に出る。
今の状態で無理に前に出ても下手すればオーガの足を引っ張りかねないと判断した他の者は走る速度を緩め、助走半分、様子見半分の状態で状況の変化に備える。
「おぉアァッ!!」
オーガが巨大ハンマーを掲げ、平たい面をドラゴンの尻尾へと振り下ろすが、ドラゴンは敵を背にしたまま飛び上がって攻撃を躱し、飛び上がった運動エネルギーを保持したままオーガの方を向き、ラレルの木の幹へと自身の後脚が到達した瞬間、それを足場にして強く踏み込む。
ドラゴンが蹴り飛ばした幹の部分が鈍い破裂音を鳴らすさまはラレルの木の悲鳴にも似て、絶えず鳴り響く雨風の音や雷鳴の中でもハッキリと聞こえたそれはドラゴンの脚力が如何に桁外れかを物語っていた。
岩よりも丈夫なラレルの木を、物の序でに粉砕する程の脚力で勢いを付けオーガへと急接近したドラゴンが、打撃とも斬撃とも取れる右前脚でオーガに襲い掛かる。
「グッ!!!」
ハンマーのヘッドで右前脚を防ぐが、勢いを殺しきれなかったオーガの体が、重力を失ったかのように足元から浮き上がり後方へ吹き飛んで行く。
「うぅぬぅンン!!」
オーガの両足が地を滑るが体勢は崩れず、吹き飛ばされた勢いが収まったところで、オーガが再びドラゴンへと走り出す。
「おおおおおぉ!!」
武器を挙げ雄叫びを挙げ、果敢に攻め立てるが、ドラゴンが自身の頭部を狙うオーガの一撃目を躱し、右前脚を横薙ぎに払おうとする二撃目も躱す。とにかく命中させようとヤケクソに振るった三撃目も背後に引いて躱し、すぐさま右前脚で反撃する。
「シャアァァ!!」
攻撃は一旦あきらめ、防御に回ったオーガが武器でドラゴンの一撃を防ぐ。
「ゥぐぐ!フゥー!!」
強烈な衝撃に踏ん張るオーガが、食いしばった口の両端から大きく息を吐く。
「まずい!!助けるぞ!!」
グレントが他の者へ号令を出して走る速度を限界まで高める。
『ドラゴンの動きがやけに鋭い!少しずつ俺達の動きが読まれ出したのか!?』
グレントの予測は当たらずとも遠からぬ物だった。
ドラゴンは先遣隊の動きに徐々に対応しつつあったが、正確には、先遣隊の動きの癖に気付きつつ有ると言うより、戦闘行為そのものへの適応で有った。
まだ幼体とは言え、ドラゴンに太刀打ちできる生物は殆ど存在しない。
子供のドラゴンは生まれ落ちて今日まで、武器を携えた先遣隊と遭遇するまでは、およそ戦闘と言えるものを経験してこなかった。
獲物を狩った回数は数知れず、それは戦闘と言うよりも、生まれ付き備わっていた身体能力による一方的な虐殺。
いかに力が有ろうとも、虫ケラを踏み潰して遊んでいただけの子供。
その子供が、虫ケラ以上の力と相当な経験とを兼ね備えて自身を殺そうとする存在に出会った。
戦闘の技術も、経験も持たぬ子供だったドラゴンは、生きる為の変化を余儀なくされた今、恐るべき生命力と身体能力とを持って、極限状態とも言える命のやり取りの中で急速に戦闘と言う行為に適応しつつあった。
先遣隊の者達がドラゴンへ後数歩のところまで迫るが、寄ってたかって攻撃されては厄介だと理解し始めていたドラゴンは、右前脚に集中した意識を背後にも当て、後続の者達へ尻尾を振るう。
表面部分がほぼ液状になった地面の泥が弧を描くように水平に巻き上がり、眼前で暴れる尻尾と泥の壁とでグレントとヴァンパイアが怯む。
尻尾を振るい続けながらもドラゴンが再び右前脚に力を加えるが、防御に徹底したオーガは堅実にそれを防ぐ。
「ギィィィィ!!」
右前脚だけでは攻め切れないドラゴンが左前脚を振るうが、ハンマーのヘッドで右脚を止めたオーガは、柄の先を、千切れた左前脚の傷口へ突き刺すようにして防御する。
「ヴギッ!!アァ!!」
予期せぬ苦痛による無条件反射で左前脚を離したドラゴンだったが、すぐにまた、オーガへと左前脚を突き出す。
『懲りない奴め』
心中に生じた言葉から再び柄の先を構えようとするオーガだったが、勢いよく突き出された左前脚は、オーガが柄の先を構えるよりも前に、ピタリと動きを止める。
『なんだっ!?フェイントか!?クソっ!』
この場面で初めて、ドラゴンが戦闘技術を身に付けつつある事に気がついたオーガが、左前脚以外の部位に意識を集中させるが、力尽くで正面突破しようとしていた右前脚はオーガの力の込め方に反して斜め下方へと滑るように降ちていく。
蓄積された経験と直感とで嫌な気配を感じたオーガが半ば無意識の内に防御を固めた数瞬後、ドラゴンの右肩がハンマーに勢いよく打つけられる。
「ぐうぅ!!」
全身を後退させられたオーガが堪らず一度離脱しようとするが、一歩下がろうとした所で背中に僅かばかりの弾力を感じさせる硬い物がぶつかる。
「っ!!」
ラレルの木に退路を塞がれる形になっていると気付いた時には、正面から勢いを付けたドラゴンの大口が迫っていた。
ある種の最終局面に入り、瞬間の密度が臨界点に達した刻の中で、所詮は片手間に過ぎない尻尾の攻撃を捌いたグレントとヴァンパイア達が、尻尾や後ろ足に武器を突き立ててもドラゴンはそれを意に介さない。オーガを仕留める事に専念したドラゴンの動きは半端な攻撃では止まらなかった。
生物としての根本的な性能の違いが濃厚な死の気配と合わさり、オーガの視界には、ドラゴンの口のサイズが本来の10倍近くもの大きさとして映し出されていた。
戦いに生き戦いの中で死ぬ事を至上の美学とするオーガは、生まれて初めて絶望にも似た恐怖を味わったが、人としての感情が、戦士としての意地が、獣としての本能的な部分では負けを認めても尚、気力で恐怖を捻じ伏せ、殺されるにしても一矢報いようと武器を握る両手に力を注ぐ。
死を覚悟し全身全霊で玉砕すると決めたオーガには最早、ドラゴン以外のその他一切は意識下に無く、ただ眼前の敵へと猛進するのみ。
しかし、全てがスローモーションの世界で、突如としてドラゴンが白目を剥いて、その体が地面に吸い込まれるかのように沈みゆく様を確認した瞬間、オーガはハッと我に返った。
戦闘中だと言うのに思わず両手で耳を塞ぎたくなる程の轟音が鳴り響く。
「ッッ!!??ゴボォ"ッ!!!」
ドラゴンが口から夥しい量の血を吐き出す。
背中からは肉を突き破って骨が飛び出し、体から立ち昇っていた陽炎の様な黒い煙が消失する。
耳を劈く轟音の余韻が消え去った時には、当初から断続的に鳴り響いているであろう肉を押し潰す鈍い音と、何本もの骨がへし折れる重い音とが尾を引いている。
ドラゴン周辺の地盤が衝撃によって幾らか低くなる。
反射的に上を見上げたオーガが、ドラゴンの背に立つ翼人族の姿を確認すると、大空から急降下したハーピィの一撃がドラゴンに死傷を負わせ、ドラゴンを瀕死状態か死亡に追いやった現状を改めて認識すると、念の為に頭部を潰して完全にトドメを刺そうと狙いを定める。
既に勝利が確定したと言える状況だが、野生の中で生きる彼等は最後の瞬間まで緊張の糸を緩めない。
緊張の糸は張り詰めたままだった。
しかし、嵐による雨風と雷が、迫り来る脅威の発見を遅らせた。
「駄目だ逃げろぉお!!!」
「退がれぇええ!!!」
グレントが、少し遅れてヴァンパイアの1人が、他の者へ危険を叫ぶ。
訳も分からぬままオーガは屈み、ハーピィが羽ばたいてその場から飛び退くと、ドス黒く分厚い雲を切り裂いて全長2メートル強の子供のドラゴンが現れ、オーガの頭上を掠め、先程ハーピィのいた座標を突っ切り、逃げ遅れた2人のヴァンパイアの内1人を右前脚で踏み潰し、もう1人を弾き飛ばす。
踏み潰されたヴァンパイアは拉げた体から内臓を噴出させ、弾き飛ばされたヴァンパイアはラレルの木を何本も折りながら彼方へと消えて行く。
度重なる衝撃で地盤沈下は加速し、ボロボロになったドラゴンの伏す地面が大きく陥没し、ドラゴンの体が、自身のそれよりも一回り大きな穴に落下する。
「ギギジャシャアアァァアァ!!」
乱入したドラゴンが咆哮を挙げる。
予期せぬ闖入者の存在によって状況が一変する。
このまま戦闘を続けるのは無謀だ。
戦果を報告しなければならない為、客観的に見て逃げ切れる可能性の高い機動力に優れたワーウルフとハーピィとが撤退を意識しだすが、必要である筈のその行為はオーガとヴァンパイアを見殺しにするのも同然。
今この場においては不要な情と罪悪感が両者の決断を遅らせる。
「レイラァァァァァ!!!」
「ワーウルゥゥゥフ!!!」
しかし、オーガとヴァンパイアは現状を把握して尚、否、把握しているからこそ2人の背中を押す。
ハーピィのレイラと、ワーウルフのグレントは、呼び掛けに応じて脇目も振らずその場から離脱した。
その場に残ったオーガとヴァンパイアが2匹目のドラゴンと交戦する中、程なくして、穴の中から唸り声と共に満身創痍のドラゴンの右前脚が這いずり出て、続け様に顔が迫り上がる。
「奴め!まだ生きて……!っくそ!!」
穴から這い出ようとするドラゴンへヴァンパイアが走り出すと、それに反応した2匹目のドラゴンが動き出すが、オーガが間に入って進路を塞ぐ。
「ダァァアアああぁ!!」
穴から顔を出すドラゴンへとヴァンパイアが切り掛かるが、ドラゴンが剣へと食らい付いて攻撃を防ぐ。
「うっ!!ぐぐゥ!」
攻撃を止められたヴァンパイアが剣を手繰り寄せようと力を込めるが、ドラゴンは今にも体が崩壊しそうな様相でありながら、とてつもなく強い力で噛み付いたまま動かない。
ならばと強引に押し込むが、それでもドラゴンはびくともしない。
互いに硬直状態に入った中、それを打破しようとしたヴァンパイアが傷口へ蹴りを放とうとするが、剣先から伝わる力が僅かに弱まるのを感じたドラゴンは、首を上下左右に振ってヴァンパイアを揺さぶる。
「おっ!う!うぅ!」
しばらく揺さぶり続ける内に、剣先から伝わる力が極端に弱まった事で敵の体勢が大きく崩れたのを確信したドラゴンが、勢いよく首を逸らしながら口を開いてヴァンパイアを投げ飛ばす。
豪雨で地面が多少やわらかくなっているとは言え、武器を手放さまいと握り続ける中、山形に高く投げ飛ばされ、受け身が不十分なまま強打した全身からは激しい痛みが走る。
勢いよく地面に打ち付けられるだけに留まらず未だに残った運動エネルギーがしつこく襲い掛かるが、執念によってできるだけ標的から遠ざからないよう耐えつつ、自身の出せる最高速度で立ち直ったヴァンパイアが、腹の底から気合の掛け声を出しながら再びドラゴンへ距離を詰める。
「あ…ああぁァァアアア!!!」
しかし、ヴァンパイアを投げ飛ばしてすぐ動き出していたドラゴンは既に穴から全身を脱出させつつあり、ヴァンパイアが胴体を狙って振り下ろした剣は、グレントの逃げた方向へ向いて素早く走り出したドラゴンの尻尾の先っぽ数センチを切り落とす事しかできず、苦し紛れにギリギリで横薙に軌道を変えるが、その一撃は尻尾の鱗を1枚剥いだだけに終わった。
『っ!!駄目か!!………なんたる失態……追い掛けたいところだが、オーガ1人にこの場を丸投げする訳にも行かぬ…すまないワーウルフ。なんとか生き延びてくれ』
ドラゴンを取り逃がしてしまい焦燥するヴァンパイアだったが、その場からの離脱に徹するドラゴンに追い付ける保証も無い今、歯痒さを噛み殺し、改めて2匹目のドラゴンへ向き直り、オーガとの共闘姿勢に入る。
ヴァンパイアの追撃から逃れたドラゴンは、負傷した前脚が着地する度に訪れる痛みと、それらから来る体軸の乱れを緩和させる為に、地を走って勢いを付け、後脚でジャンプして宙を滑空する。
4枚ある翼の内2枚を失い、平常時の様に空を飛び回る事こそ出来なくなったものの、残った2枚1対の翼を用いれば、助走を付けて一定時間は宙を走れる。
前脚が地を踏む度に発生する痛みとバランスの乱れから逃れる為の移動法は、結果として泥濘んだ地面に足をとられる時間を極端に減らす事となり、図らずもドラゴンの移動速度を大きく向上させる。
ドラゴンが動くよりも早く撤退したグレントだったが、グレントの走る速度が泥によって僅かに落ちる一方、悪路の影響を受けないドラゴンとの距離は時間と共に少しずつ縮まっていき、森を抜けきらない内にドラゴンがグレントへと追い付く。
気配や予感と言う表現では弱過ぎる程の強烈な存在感と、雨土の中に混ざる血の匂いに反応したグレントが小さく振り向き、ドラゴンが背後まで迫って来ているのを確認する。
ドラゴンを確認したグレントは潰れた右目の死角へ移動しようと進路を斜め右へ逸らす。
尻尾で後方のラレルの木を叩いて瞬間的に加速したドラゴンがそれを追ってグレントへと右前脚を振り下ろすが、ドラゴンの行った動きを可能性のひとつとして読んでいたグレントが、素早く左へ跳んで攻撃を躱す。
鼻先を切り飛ばしただけでは完全に嗅覚を殺しきれていなかったのか、それとも聴覚で位置を把握しているのかは分からないが、ドラゴンの狙いは正確だった。
ならばと左へ跳んだ勢いでそのままドラゴンから見て左の方向へ移動する。
千切れた左前脚の位置を陣取れば攻勢も弱まるかとの考えがあったが、再び後方のラレルの木を尻尾で叩いて加速したドラゴンが、右へ跳ぶ寸前までグレントがいた座標へ大口を開けて突っ込み、ラレルの木を一噛みで倒壊させる。
ドラゴンの高度が落ちるが、ドラゴンはすぐさま右前脚で地を叩いて飛び上がり空を走る。
このままでは逃げ切れない。拠点となる鉱山までの距離と、いよいよとなればドラゴンに応戦する事とを視野に入れ、スタミナ配分の為に9割の力で走っていたグレントだが、迫るドラゴンを振り切る事だけを考え全力で走る。
少しずつドラゴンとの距離が開いて行くが、しばらくする内に元から地盤の緩かった地帯に突入したのか、大雨で柔らかくなった地面がグレントの強力な脚力に耐え切れず、全力で踏み込む度ところどころで足を引っ張る。
それでも彼は走る足を止めなかったが、徐々に追い付いて来たドラゴンが、再び大口を開けて飛び掛かる。
高度は低く、攻撃範囲は広い。
支えとなる地面は頼り無いが跳んで躱す他なかった。
グレントが左へ跳ぶ。
できるだけ体重を掛けないように跳んだつもりだった。
しかし、地を蹴った瞬間の感覚が、残酷な現実をグレントへと突き付ける。
地盤の緩みによって勢いの乗らないジャンプをしたグレントの左脚をドラゴンの牙が掠める。
掠っただけとは言え、力と速度と重量を兼ね備えた鋭い牙は一瞬の接触で相当な負荷を齎らす。
皮膚が裂け鋭い痛みが走り、内部まで響く鈍い痛みが左脚を突き抜けて行く。
片脚をやられた。
まだまだ動けるものの軽視できる怪我では無い。
衝撃で吹き飛ばされたグレントが腹這いに近い形で地面に叩き付けられる。
「ぐっ!」
左手で武器を握りながら、右肘を立てて起き上がろうと顔を上げたグレントの視線の先に、雷の落ちるような速度で2匹目のドラゴンが舞い降りた。
空から現れたドラゴンの口には、胸から下が口内に収められたハーピィの姿。
大量の血に塗れたハーピィはパクパクと口を開け閉めして虚ろな瞳のまま上半身を痙攣させている。
ハーピィを口にするドラゴンの額には横一文字の切り傷が刻まれていて、翼の1枚が根本からへし折れているが、後は翼の至るところにオーガの付けたと推測できるサイズの引っ掻き傷ぐらいしか目立った外傷が見当たらない。
小さくないダメージを受けてはいるが、先に戦っていた方のドラゴンの驚異的な生命力を鑑みるにまだまだ余力を残しているだろう。
ドラゴンはハーピィの上半身と、ハーピィが使っていた武器とを吐き捨て、グレントには目もくれず、彼の横を悠然と通り過ぎて傷だらけの同族へと歩み寄る。
『舐めんじゃねぇ。俺はまだ生きているぞ』
心中に生じた言葉を噛み殺し、ドラゴンの隙を窺いつつ勝つ為の算段を行うグレントの意識は、背後のドラゴンよりも、今際のきわの呻き声が、なにやら同じような言葉を繰り返している様子のハーピィへと移ろう。
「カ…ま…い……バルカすまない…な…い…すまないバルカ…バルカすまない…すまない…」
「バルカってのは…あのオーガの名前か?」
すぐ近くの地に伏すハーピィへと四足歩行で歩み寄ったグレントが質問するが、当然であろう胸から下を喰いちぎられたハーピィは既に正気を保てておらず、混濁する意識の中で喋る度に口から血を溢れさせながら似たような単語を繰り返す。
「オーガ……?オーガ…バルカ……すまない…ゴぼ……げほ…すまない…はぁ…はぁ……バルカ…バルカ…お前の分…まで…私は…ごほ……ドラゴンを……はぁ…ドラゴン…を……」
残る一欠片の意識が、敗北したハーピィに血涙を流させる。
「充分だ」
グレントが、瀕死のハーピィを強く抱き締める。
「充分だ。お前は良く戦った。もういいんだ。もう……役目を果たしたんだ。安らかに眠るといい」
「…アァ……ぁぁ……」
抱き締められたハーピィは、最後に大きく安堵の吐息をもらしてから、息を引き取った。
グレントはゆっくりとハーピィを降してから、生気の消えた両目を指先で閉じる。
敵に背を向けたまま行った一連の動作は、およそ戦闘中には有り得ない、取るべきではない行為だった。
しかし行わずにはいられなかった。
恐怖を、悲しみを、心身に刻まれた凍てつくような苦痛を和らげる方法を他に知らなかった。
そして、心身を焼き焦がす苦痛をやわらげる方法も他には思い浮かばない。おそらくは、他に方法があったところで実行しようとも思わないだろう。
避けられない戦いの場で敵意を向ける者がいるならば、ただ殺すのみ。
敵の返り血だけが、己の大切なものを奪い来る相手に対して燃え上がる怒りの炎を鎮められる。
立ち上がったグレントが後方へ振り返ると、ハーピィを噛み殺したドラゴンが、重症を負ったドラゴンの傷口を舐める姿が目に入った。
「こいつは驚いた……ドラゴンにも情ってものがあるのかい」
グレントの声に反応した2匹のドラゴンが、同時にグレントを睨み付ける。
自分はこれから死ぬのだろう。しかし、何故か妙に落ち着いていた。
諦めた訳では無かったし、都合の良い希望に縋るつもりも無かった。
不思議な感覚だった。
「………なぁドラゴン。実はひとつだけ、お前達に感謝してる事があるんだ。お前たちのおかげで俺は素晴らしい人に出会えたんだ。そいつの名はエルヴィーグって言ってよ…これがまためちゃくちゃ可愛いんだよ。外見も中身もすげー良い女でよ……ほんと…良い女過ぎて…俺なんかが告っても良いのかって迷っててよ……なんて、ガキにこんな話ししても分からないか……あぁ…それともうひとつ…」
体を脱力させ、獲物へと狙いを定める。
「くたばれ糞野郎!!」
勢い良く放り投げた武器が、重症のドラゴンの右前脚に突き刺さる。
食い込んだ四つ刃が穴の開いた傷口を内から抉り裂いて右前脚の先の方を千切り落とす。
「ガアアァァアァギッ!!」
両前脚が使い物にならなくなったドラゴンが悲鳴と共に体勢を崩す。
「ギャラララァア!!」
額に一文字傷を負ったドラゴンが前に出てグレントへ牙を向けるが、グレントも怯まず前に出る。
お互いが勢い良く相手に向かう事によって、予想以上の速度が出た瞬間に起こる接触でドラゴンの狙いが僅かに狂う。
グレントはその隙を逃さずドラゴンの横を通り抜け、体勢を崩す瀕死のドラゴンの首の傷口へ喰らい付く。
「ガッ!アァァア」
抵抗する動きを見せるドラゴンを強引に倒し切ろうと、両手を他の手近な傷口へと捻じ込む。
強固な骨で逆に喰らいついた牙が折れそうになっても、微塵も力を緩めぬまま、体感時間が実際の時間よりも何倍も永い4秒が過ぎたところで、ドラゴンの喉の骨を喰いちぎった鈍い轟音がグレントの体に響き渡る。
これまでドラゴンの死に立ち会った事は無かったが、幾度と無く繰り返した経験との差異の少なさから明確にドラゴンが死んだのを感じ取ったグレントは首元から離脱して、足元の武器を手に取り素早く振り返る。
グレントの視線と、ドラゴンの無機質な瞳の視線が搗合う。
「ゴォロロロロロォオ!!!」
「うおぉおおおおおお!!!」
咆哮を叫び両者が鬩ぎ合う。
『エルヴィーグ。君に言えなかった事があるんだ』
毛皮が舞い、龍鱗が飛び散る。
『初めて会った時は情けない姿を見せてしまったな。あの時から、何をしていても頭の片隅から君が離れなかった。いつしかそれが恋だと気付いた』
肉が削げ、血が噴き出す。
『自分に自信が無かった訳じゃない。だけど、俺は君の隣に並ばなかった。並べなかった。君は美しい』
爪が折れる。指が落ちる。
『君には大切な事を教わった。君に相応しい男になりたかった。だから先遣隊に名乗り出た。最前線で活躍して、いつしかドラゴンを倒し、俺達のいた世界を取り戻したかった』
目が潰れる。
耳が裂ける。
内臓の一部が溢れ出す。
『そこで初めて告白するつもりだった。君と共に生きたかった。君と共に歩みたかった。そしてまた……』
喉笛が千切れ、頭部と胴体が分断される。
『君の膝で眠りたかった。さようならエルヴィーグ。ありがとうエルヴィーグ。俺は君を愛している』
戦いは終わった。
喜怒哀楽を唄う声はもう聞こえない。
ただ嵐だけがその空間に居座り続けた。




