終わりと始まり
玄関のチャイムが鳴ったのは、遅めの朝食を終えた頃だった。
「はいはーい。」
私は食器洗いの手を止め、玄関へと向かう。
扉を開け私は驚きで目を瞬いた。そこには単身赴任中の夫と若い女性が立っていたのだ。
女性はどう見ても二十代前半。ライトブラウンのゆるふわパーマに派手な服、ビビッドカラーに目が痛い。夫の服には……スカルが付いている。
――うわぁ。骸骨めっちゃ主張してるよ。全く似合ってないし。隣りの女性の服には合ってるけど、中身がおっさん過ぎて痛いわ。しかも前よりおでこ広くなってない?だいたい何でここにいるの?赴任中よね?
頭の中で?が渦巻く。おまけに笑ってしまいそうで言葉が出せない。しばしの沈黙に耐えられなかったのか、女性が夫の腕を揺らして「早くぅ。」と催促すると、夫が口を開いた。
「彼女と結婚したいから離婚してくれ。」
私は夫の突然の離婚宣言に思わず『はい、よろこんで。』と言いそうになり、ばっと両手で口をふさいだ。それがショックを受けているように見えたのだろう。隣に立っている女性の口角が上がる。
勝利を確信したような笑みを浮かべて夫の腕に手をまわすと、嬉しそうにデレた夫がいつもの“俺様至上主義発言”を始めた。
「で、来週にはこっちに戻って来るから、それまでに出ていってくれ。」
――ナニイッテンダ、コイツ。アイカワラズ、ワケワカンネ。……おっと、危ない、処理落ちしそうになったよ。
私が無言で手を差し出すと、夫はポケットから小さく折り畳んだ離婚届を取り出しながら一人で話を続ける。
「親権はお前にやる。その代わり家財道具は全部置いていけ。」
どこまでも自分勝手な言動に目眩がしそうだったが、離婚には大賛成なので今は何も言うまいと、黙って離婚届を確認した。
「間違いはなさそうね。これは私が出しておくわ。急いで荷造りしないといけないんだから、今日のところは帰ってくれる?」
「えっ?いいのか?俺がいなくなったら困るだろ?専業主婦のお前とニートの露里じゃ生活できないだろ?」
離婚を拒まれると思っていたのか、あっさり承諾したことに狼狽えている姿が情けない。
月十万円の生活費が赴任三か月で止まっても、なんの問題もなく生活できているのは、私が在宅ワーカーで、長女の露里もネット環境さえ整っていればどこでも仕事ができるため、家にいることが多いだけで、収入はちゃんとあるからだ。
約一年半生活費を入れてないことはすっかり忘れて「俺のおかげで生活できている。」と本気で思ってるのだから、救いようがない。だいたい五人家族で月十万円ってのもあり得ないでしょ。
「鍵はポストに入れておくから、来週の日曜日までここには来ないでちょうだい。」
有無を言わせず玄関のドアを閉めて扉に寄りかかると、ドア越しに二人の会話が聞こえる。
「ねえ、家の中見せてくれるって言ったじゃん。」
「出ていくって言ってるんだから、一週間だけ待ってよ。待ってる間いろんな所に連れっててあげるからさ。」
――若い子をつなぎとめるのは大変ですなぁ。
実生活では既に他人同然だったから嫉妬も恨みもない。かといって今後間違いなく苦労する彼女に対して同情するわけでもない。
じわじわと湧き上がってくる喜びにきつく拳を握りしめ、万歳しようとした瞬間、背後から声がかかる。
「離婚するの?」
振り向くと長女の露里が仁王立ちで問いかけてくる。何やら怒っているようにも見えるが、口元は笑っているようにも見える。
「露ちゃんは反対?」
「まさか。でも、黙って受け入れたのには納得いかない。もっとグッサリバッサリやると思ったんだけど。」
これまで父親の我儘な言動に、散々振り回されてきたことへの不満はかなり大きかったらしく、私がいつものように正論めった刺しにするのを期待していたらしい。
「いやいや、せっかく手に入れた離婚届だよ。彼女に本性バラしてご破算なんて絶対しません。直ぐ!即!出してくるから。」
私の言葉に露里は「なるほど」と手を打ち満面の笑みで納得してくれた。下の二人はそもそも父親と認識していないし、凛華はどう言うかな?と考えながらも急いで役所に向かった。
夕食後、家族会議と称して父親の来訪と離婚したことを話す。
「あの人いなくても何にも困んないから、離婚するのはいいけど、ボクらが追い出されるのはムカつく。っていうか事後報告って言うんだよね?こういうの。」
――すんません。その通りです。
凛華の反応は予想通りだった。
「凛ちゃんも自分の部屋が欲しいって言ってたし、もっと広いところに引っ越そうって話してたでしょう?ちょっと予定より早くなったと思えばいいじゃない。」
「まぁ、そういうことにしといてあげる。」
――最近やたらと上から目線で物を言うのは何故?そういうお年頃?思春期ってヤツか?
無事に離婚届も受理されて荷物もまとめたけれど、一週間で家が見つかるわけもなく、とりあえず友人宅に身を寄せることになった。
身の回りの物だけなので、引っ越し自体は簡単だったが、私の仕事が終わらず引っ越しに間に合わなかったため、大型のキャリーワゴンに仕事道具満載で出る羽目になってしまった。
夕方の駅前広場は思った以上に人通りが多かった。
近道するつもりだったが荷物が大きくて歩きづらい。
「選択を間違えたね。」
凛華がニヤッと笑う。
「嫌なこと言わないでよ、新しい人生の始まりだっていうのに。大丈夫!みんな一緒なら何とかなるよ。どこでだって生きていける!」
そう言った瞬間足元が明るくなり、地面を光の線が走る。
――何これ!キレイ。
大きく広がっていく光に、行き交う人たちも驚き立ち止まる。だんだん光が強くなり私はあわてて子供たちを引き寄せた。眩しさに目を閉じた瞬間音が消え、数秒後、大きな歓声に驚いて目を開けると、全く知らない場所にいた。
――どこでだって生きていけるって言ったけど……ここ……どこ?