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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

八つ裂きループ令嬢は累計人生百年目に、初めての恋をした。

作者: 天ノ瀬

おかげさまで書籍化が決まりました。書籍版では10万字の書き下ろしを加えた長い物語になります。

 私、リディア・メイフィスはつい先日、二十歳の誕生日を迎えた。


 この国の婚姻可能年齢は二十歳。私もついにお嫁に行く歳になってしまった。 


 今日は実家で過ごす最後の日だ。

 いよいよ明日、嫁ぎ先の家に入って正式な婚姻を取り結ぶ。

 私のこの長い金髪も青い瞳も、体も、自由も、明日からは全てお相手のものになるのだ。

 

 婚約者はもうずっと昔に決まっている。

 私がまだ幼いうちに、父が取り交わした婚約があったので。

 

 婚約者は子爵家の中年男だ。通称は『女狂いの遊び人』。

 私は彼の元に、妻という名の都合の良い玩具(おもちゃ)になりに行くのだ。

 

 残念ながら幸せな結婚とは言い難いものである。

 でも私にとっては、もはやそんなことはどうでも良いことなのであった。



 ――なぜなら私は、もうこのすぐ後死んでしまうから。



 それも悪魔に八つ裂きにされるという、悲惨な最期を迎える運命なのだ。

 私は自分の不幸をもう嫌というほどよく知っている……




 私は屋敷の自室で侍女に髪をとかされながら、ぼんやりと窓の外を見た。


(……曇ってきたわね……もう少ししたら空一面が黒雲に覆われて、まるで夕方のように暗くなるのよねぇ……()()見ても、気味の悪い天気だこと……)


 何度、というか、もう五度目だ。

 

 この不気味な空模様を眺めるのも五度目。

 二十歳の誕生日を迎えたのも五度目。

 女狂いの遊び人と婚約をしたのも五度目。

 

 ……そして、このすぐ後に迎える死も、五度目になる。


 私は曇り空を眺めながら、ため息をついた。

 

(神様……私はあと何度、人生を繰り返せば良いのでしょう……)



 ――そう。私、リディア・メイフィスは、もう五回ほど人生を繰り返しているのだ。

 

 信じられない話だろうけれど。


 

 二十歳で悪魔に襲われ、(むご)たらしい死を迎えては、赤子に戻ってまた人生をやり直す。 

 そんなループ人生も今年で累計百年目。

 

(……悪魔に八つ裂きにされるの、痛いから嫌なのよね……もう本当に勘弁してほしいわ……もう少しこう、楽になんとかならないものかしら……)


 これっぽっちも、おめでたくない節目の年。

 もはや麻痺してきた思考を垂れ流しながら、私はただただ遠い目で曇り空を仰いでいた。





 思えば不幸の始まりは、いつも『女狂いの遊び人』との婚約からだった。


 この国において、貴族たちが縁を結び始めるのは、だいたい十五歳を過ぎた頃からだ。

 早々に婚約相手を決める王族であっても、十歳頃からである。

 なのに、父がお相手と婚約を取り交わしたのは、なんと私が三歳の時だった。


 婚約というより、父は実質、私のことを売ったのだ。

 

 婚約者は金回りの良い子爵家の長男で、我が家は落ち目の男爵家。

 単純に金に目がくらんだのだろう。 


 婚約者は当時すでに三十代。

 この先年老いて、もし遊ぶ女がいなくなっても、若い娘の体を自由に堪能できるようにと、三歳の私を手に入れたようだ。


 色男な彼の女遊びの激しさは、界隈では有名らしい。

 顔だけは良いので、女性を虜にするのはお手の物だそうで。

 まるで子供が新しい玩具を欲しがるように、次から次へと女を手に入れ、捨てていくのだそう。


 彼の遊びに本気になって、泣いた女も数知れず。

 『あの男の妻にでもなろうものなら、奴が今まで捨ててきた女たちから、祟りを買うに違いない』

 そんな噂がささやかれるほどであった。



 ――そして結果的にその通りになった。

 


 彼に捨てられ泣かされた女たちは、歪んだ恋心やら嫉妬心やらから、『悪魔』を生んでしまったらしい。


 悪魔とは、人の負の心から生まれる怪物である。

 黒く大きな体に翼を持ち、人と熊を足したような恐ろしい怪物だ。

 

 婚約者の女遊びが原因で生じた悪魔は、婚姻直前の私に襲い掛かってきたのだった。

 

 悪魔は毎度の人生で、ぬかりなく私を惨殺してきた。

 数回ループを繰り返した時、襲来は避けられぬ運命なのだと悟った。


 何せ、元凶たる遊び人との婚約は、まだ物心もついていない三歳の頃に決まってしまうのだ。避けようがない。

 父はいつだって大喜びで、幼い私を遊び人子爵に売ったのだった。


 私の今回五度目の人生も、ラストは嫉妬の悪魔の八つ裂きだろう。

 

 きっと六回目も、七回目も、この先ずっと――……



 


 暗い気持ちで考え事をしながら、ぼうっと窓の外を見る。

 そんな私をよそに、侍女はせっせと髪を結い始めた。


 悪魔が襲来するのは、侍女に髪を整えてもらった後だ。

 まだ今世の八つ裂きまで時間には余裕がある。


(――なんて、きっと誰に言っても信じてはもらえないでしょうけれど……。今となっては未来のことなど何も知らなかった、最初の人生が懐かしいわ……)


 髪を結い上げられながら、手持ち無沙汰な私はもうしばらくぼんやりと、これまでの人生に思いをめぐらせることにした。


 累計百年と少しの、私の人生に――……







 ――と言っても最初の人生の記憶は、もう随分と遠いものになってしまったけれど。


 確か私は屋敷の中庭にある花園が好きで、よく通っていたのだった。

 結婚の歳が近づくにつれ、憂鬱さの気晴らしに、ほとんど毎日と言っていいほど足を向けていた。


 中庭には庭師の青年がいた。

 どんな人だったかは覚えていないが、いつも会釈だけしてくる、もの静かな人だった気がする。


 けれど、二十歳の誕生日を迎えて数日たったある日。

 明日、婚約者の家に入るという、私にとっては実家で過ごす最後の日。

 

 薄暗い曇り空の下、庭師の青年に、思いがけず話しかけられたのだった。



『――――――。』



 庭師の青年が何を言ったのかは、もう記憶にない。

 何かとてもくすぐったいことを言われて、妙な心地になった気がするのだけれど。


 花を差し出され、私はそれを受け取ろうとしていたような……


 このあたりの記憶は特に朧気だ。

 何しろこの直後に、私の体はバラバラにされてしまったので。



 ――それは、庭師から花を受け取ろうとした瞬間だった。

 

 突然、頭上に悪魔が飛来したのだ。

 確か庭師は私を、腕の中に庇ってくれた。


 間近に真っ黒な姿を認めた直後、全身に焼けるような熱さを感じ、次の瞬間にはもう私の体は四散していた。

 悲鳴すら上げることなどできなかった。

 


 最後に見た景色は、真っ赤に染まった中庭の石床と、真っ黒な悪魔の姿と、私と同じように散った庭師の姿だった気がする。





 ――そんな初回の人生を終えた後。神が不遇を憐れみでもしたのか、私の身には妙なことが起こりだした。


 なんと前世の記憶を引き継いだまま、二度目の人生が始まったのだ。

 

 二度目、というより、『最初に戻った』と言ったほうが正しいのかもしれない。

 リディア・メイフィスの人生が再び始まってしまったのだ。

 私は当然、大いに混乱した。


 前世の記憶は、私に物心がついてくるのに伴って、じわじわ蘇ってきたのだった。

 赤子の時期を経るせいか、その内容は遠い昔の思い出のように、なんともフワッとしたものだ。


 しかしぼやけた記憶の中でも、悪魔の真っ黒な姿だけは異様に鮮明で……


 中庭で悪魔に八つ裂きにされた記憶はとても恐ろしく、私は二度目の人生で、常に怯えて屋敷に引き籠っていたのだった。

 この人生では一度も、花園へは足を運ばなかった気がする。



 二十歳の誕生日を迎えた後は、恐怖心も最高潮だった。


 一度目の人生では、結婚に対して憂鬱な気持ちになっていたのだが、二度目の人生ではそんなことどうでも良く思えるほど、ひたすら悪魔が怖かった。


 

 そうして誕生日から数日後、前回と同じような、曇りの日が来た。


 その日、私は一番背の高い屋敷護衛の背後に、ピッタリと張り付くように隠れていた。

 今だから思うが、きっと張り付き虫の私は相当邪魔だったことだろう。

 

 確か私は、護衛にこんな言い訳をしたのだった。


『なんだか曇り空が不気味で恐ろしいので、側にいさせてほしい』


 曖昧な記憶だが、護衛は私を邪険にせず、真摯に対応してくれた気がする。



 空を覆う雲はいよいよ厚みを増し、外が薄暗くなった。

 

 護衛の後ろに隠れながら、チラリと窓の外を確認した瞬間――……

 ――バリン! と屋敷の窓をぶち破り、悪魔が中に飛び込んできた。


「キャアッ!!」


 私は思わず悲鳴を上げた。


 護衛は私を背に庇い、即座に腰の剣を抜く。

 が、剣は悪魔の腕をかすっただけで、首には全く届かなかった。


 護衛は敗れ、私は悪魔に二度目の八つ裂きをくらうことになった。

 


 二度目の人生で最後に見た景色は、血しぶきの散った屋敷の廊下と、真っ黒な悪魔の姿と、背の高い護衛の折れた剣だった。


 



 ――という、末路をたどった二度目の人生を(かんが)みて、三度目の人生では、引き籠り場所を変えることにした。


 変えた先は王城である。


 王城には聖騎士隊がいるのだ。

 彼らは悪魔を切り払うための訓練を受けている。いわば対悪魔戦闘のプロだ。

 

 前世では屋敷護衛を巻き込み、大変に申し訳ないことをした。

 今世はプロの元で、どうにかやり過ごすことにする。


 私は物心がついていくのと同時に、ひたすら教養を身につけた。

 その努力のかいあって、落ち目の男爵家出身とは言わせないほどの淑女となり、十五歳で王城に勤めることが叶った。


(今度の人生、住み込みの侍女になれたことだし、もしかしてこのまま遊び人子爵とは破談、なんてことにならないかしら……!)


 ――そんなことも考えたが、どうやら運命はまだ私を離してはくれないようだった。



 二十歳の誕生日を王城で迎えた翌日、父から怒りの手紙が届いた。


『仕事を辞めて今すぐ帰ってこい。さもなくば、無理やり連れ帰る』


 手紙には、こういった内容がつづられていた。

 ずっと実家に帰らず働いて、婚約が流れてしまうことを期待していたのだけれど……

 父はどうしたって私を売りたいらしい。


 女狂いの遊び人と縁が切れていないとなると、やはり悪魔はやってくるだろう。

 私は覚悟を決めた。



 ――その数日後、曇りの日。


 なんと悪魔より先に、父が来てしまった。



 なにやら城門の前で私の名を呼び、怒鳴り散らしているとのことだ。

 私は侍女頭から「なんとかしてきなさい!」などと命を受け、すぐさま現場へと送り出された。


 城門を出て大きな橋を渡った先に、馬車と父の姿が見えた。

 顔を真っ赤にして怒っていた父は、確かこんなことを言っていた。


『いいから早く馬車に乗れ! このまま帰るぞ!』

『子爵には明日から奉仕させると約束してあるのだ! 違えることはできん!』

『お前の給金など、たかが知れている! 子爵家からの支援のほうが大事に決まっているだろう! 本当に分別のない女だな!』


 馬車の中へ力ずくで押し込もうとする父に、私は必死に抵抗した。

 だって今、王城を出てしまったら、この人生がまるっと無駄になるのだ。


 泣きわめきながら無茶苦茶な抵抗をする私と、怒声を上げてこれまた無茶苦茶な力技を繰り出す父。


 その様子を困惑しながら見守っていた門兵のひとりが、ふいに大声を上げた。


『あれは悪魔じゃないか!?』


 私はハッとして空を見上げ、思い切り悲鳴を上げた。


「ギャアアアアア!! 何で今来るのよ――っ!!」

 

 思わず文句のような叫びを発してしまった。

 なんというタイミングで来るのだ。この悪魔め……

 

 と、同時に、私は門の内へ向かって駆け出した。

 城門の中には聖騎士隊がいる。彼らの側にいれば、私の安全は保障されるのだ。


 ……保障されるはず、だったのに。


 駆け出した私の手は、即座に父の手に捕まった。

 門とは反対方向の、馬車の方へと乱暴に引き戻される。


 近づいてくる悪魔に門兵たちが騒ごうとも、父はおかまいなし。どこまでも他人事のようだった。

 きっと悪魔の狙いが私だなんて、これっぽっちも考えていないのだろう。

 そしてその原因に、自分が関わっているなんてことも。


 私は父に最後の抵抗をしつつ、半ば諦めの境地で悪魔の姿を仰ぎ見る。

 もうあと数回呼吸する間に、悪魔の爪は私に届いてしまうだろう。


(……三度目はここまでね……あぁ、無念……)


 ――そう思った時だった。


 私を八つ裂こうとする悪魔の腕は、どす黒い液体をまき散らしながら、派手に千切れ飛んだ。


 私は思わず目を見開く。

 なんと悪魔の懐に、ひとりの騎士が飛び込んでいた。


 黒髪を炎のように揺らした勇ましい騎士は、鎧をまとい、光を放つ長剣を振るっている。

 

 光魔法を使った剣技――彼は聖騎士だ。

 騒ぎを聞きつけ、駆けつけてくれたようだ。


 父は襲い掛かってきた悪魔に驚き、地を這いながら逃げ出した。

 私は咄嗟に馬車の後ろに隠れ、戦う聖騎士の背中に釘付けになっていた。


 騎士は悪魔の両腕を、鮮やかに切り落としてみせた。

 悪魔は恐ろしい金切り声を上げ、翼をはためかせて空へと舞い上がる。


 ふと後ろを見ると、門の奥の方から後続の騎士たちが走って来るのが見えた。

 私は三度目の人生にして、初めて気持ちが浮き立つのを感じた。


(やったわ!! この人数で戦えば勝てる――……)


 ――なんて調子づいたことを、直後に後悔したのだった。


 空に舞い上がった悪魔は、落下の勢いを使って、その巨体で黒髪の騎士をひねりつぶした。

 私はあまりに(むご)い光景に、ショックで息が止まってしまった。


 が、その後すぐに、そのままの意味で、私の息は止まった。

 矛先をこちらに変えた悪魔に、私はまた八つ裂きにされたのだった。



 三度目の人生で最後に見た景色は、血に染まった城門橋と、真っ黒な悪魔の姿と、黒髪の騎士の砕けた鎧だった。





 ――なんて、衝撃的な三度目の人生で得た教訓を、活かした結果。


 私は四度目の人生で、聖騎士になっていた。


 前回の戦いでは、きっと後続が間に合っていれば、あの悪魔にだって勝てていたはずなのだ。

 皆で戦えば、黒髪の騎士が一人で命を散らすことには、ならなかったはずだ……

 

(ならば私自身が聖騎士になって、常に聖騎士隊の中に身を置いていればいいのよ……!)


 そう考えた結果、私は物心ついた瞬間から体づくりを開始した。

 自室で筋トレをしつつ、屋敷を抜け出しては、剣術の心得のある者に教えを乞う日々。

 

 そうして十七歳にしてようやく、私は聖騎士隊への入隊を果たしたのだった。



 隊には女性騎士が少なく、隙を見せればすぐに男たちが絡んできた。

 売り手市場とはこのことだろうか。


 彼らを手玉に取って遊ぶという、強かな女性騎士もいたけれど、私には色恋にかまける余裕などなかった。

 ひたすらに鍛錬に心血を注いでいたので。


 友達の女性騎士に、こんなことを言われたことがある。


「一度きりの人生なのだから、もう少し楽しんだらどう? 恋人の一人や二人、作ってみたらいいのに」

 

 確か、打ち合いの自主練をした後の雑談だった。

 その言葉を聞き、私は遠い目でため息をついた。


(恋人の一人や二人、ねぇ……。恋人をうん十人と作って、散々遊んできた色男が婚約者なせいで、私の人生は毎度めちゃめちゃになってしまっているのよ……とてもじゃないけれど、恋なんてする気になれないわ……)


 四度目の今回も私はしっかりと、女狂いの遊び人の、婚約者の立場に据えられていた。


 私は暗い目で彼女へ言葉を返した。


「恋は諸悪の根源よ……恋こそ悪……絶対に、私は、恋などしないわ……!」


 トゲトゲしい私の言葉に、女性騎士は苦笑をもらした。

 そして隣で剣を磨いていた、緑の瞳の男性騎士へと話を振った。


「ねぇ、聞いた? リディアは恋などしないのですって。もったいないと思わない? あなたからも何か言ってやってよ」


 話を振られた男性騎士は、なんとも複雑な表情を浮かべていた気がする。

 緑の瞳をスッとそらし、会話には加わらない、といった様子だった。


 聞くところによると、彼は私とは真逆の、恋に生きる派の人間だそうで。

 私と意見を衝突させないために、話題を避けたのかもしれない。

 彼の気遣いに少し申し訳なさを感じた。


 ……私には残念ながら、恋の素晴らしさというものがまるでわからない。

 恋に振り回された女たちの心のなれの果てが、悪魔となって私を惨殺するということしか、わからないのだ。


 それを回避するために、今回の人生もものすごく努力をしたのだった。


 聖騎士隊に入隊してからは、これまで以上に死ぬ気で体を鍛え上げ、死ぬ気で剣技を磨き、死ぬ気で光魔法を習得した。


 そう、まさに死ぬ気だ。

 だってそうしないと、本当に私は八つ裂きにされて死ぬ運命なので。



 ――そうして迎えた、四度目の二十歳の誕生日から、数日。


 毎度馴染みとなってしまった、どんよりとした曇り空の下。

 私は友人二人と城門前にいた。

 

 三度目の人生に同じく、父が怒りと共に城へ乗り込んできてしまったので……

 城門前で粗相(そそう)をする父を放っておくこともできず、対応することとなった。

 

 でも今回は、侍女だった前回とは違う。

 対応にあたったのは私と、聖騎士の友人たちだ。


 軽口をたたき合える女性騎士と、緑の瞳の男性騎士。

 「癇癪(かんしゃく)持ちの父が来たので、一緒になだめてほしい」と頼んだところ、二人は快く引き受けてくれた。

 

 私を含めた騎士三人で、怒鳴り散らす父をなだめる。


 その間にどんどん雲は厚みを増し、いよいよあたりが薄暗くなってきた。



 ――そして黒雲の隙間から、悪魔は再び飛来した。



「あれは悪魔じゃないか!?」


 門兵が前回と同じように、大声を上げた。 


 父を放って、私は即座に腰の長剣を抜く。

 

 前回は何もできず、ただ馬車の影から見ていただけの戦いに、今回は勢いよく身を投じた。

 私は剣に光魔法をたぎらせ、叫び声を上げた。


「おりゃあああああああっ!! 八つ裂きにしてやるわっ!!」


 人生を重ねるごとに叫び声がおかしくなっていくことには、目をつぶってもらいたい。


 悪魔を前にして、私はこれっぽっちも怯まなかった。

 なにせ今回は過去にないほどの戦力なのだ。

 

 隊への所属年数的に、上級光魔法の習得には届かなかったものの、若手聖騎士としては精鋭の域に達していると自負している。

 ここにいる三人とも、皆同じくらいの実力だ。

 十分勝てる見込みがある。


 私は気合の叫びと共に、悪魔の片腕をザックリと切り落とした。

 腕は門の方へ大きく飛んでいき、黒いベトベトした液体が飛び散る。


 間髪入れず、男性騎士が悪魔の背に飛び掛かった。彼は勢いのまま、真っ黒な翼を思い切り叩き切る。

 飛べなくなった悪魔は、地をのたうった。

 

 女性騎士が足を落としたのと同時に、私は悪魔のもう片腕を切り裂いた。


 身をひるがえした男性騎士が、ひと際強い光魔法を剣に込める。

 彼は足を無くしてバランスを崩した悪魔の首に、光り輝く長剣を力一杯振り下ろした。

 

 ドッ、とも、グチャア、ともつかぬ、質量のある音を立てて、悪魔の大きな首は地面へと転がった。


 周囲は飛び散った悪魔の体液で真っ黒に染まり、酷い有様だ。

 一見すると恐ろしい光景だが、その中に、人間の血の色はない。

 

 その様を見て、私は込み上げる歓喜に打ち震えた。


「やった……! やったわ倒した……!! 悪魔め、ざまぁないわ――……」


 

 ……なんと、そこで私の四度目の人生は終わった。


 興奮のままに、少々口汚い言葉を発してしまった罰だろうか……


 地面に転がっていた悪魔の首が、牙をむき出しにして、私めがけて飛んできたのだ。

 私は首だけの悪魔に胴体を噛み砕かれ、息絶えた。


(……や、八つ裂きは……回避したわ…………)


 薄れゆく意識で、そんなことを思ってしまった。



 四度目の人生で最後に見たものは、とめどなく水をこぼす、緑色の瞳だった。

 





 

 これが私の今までの人生だ。


 そして今が五度目の人生。

 つい先日、また二十歳の誕生日を迎えた。


 これまでの四度の人生で得た経験を活かし、私は今度の人生では――……



 ――何も、しないことにしたのだった。



 なんだかぽっきりと、心が折れてしまったのだ。


 前回四度目の人生は、これまでにないほど仕上がっていたというのに、結果的に運命からは逃れられなかった。

 そのことが尾を引き、五度目の人生では頑張る気力がしぼんでしまったのだ。


 どれだけ足掻いたところで、結果は決まっている……

 今世の私はすっかり、後ろ向きな考えに取りつかれてしまった。


 そんな暗い思考に拍車をかけたのが、『悪魔を倒したその後』の想像だった。

 悪魔を倒したところで私に待っているのは、遊び人の中年子爵に玩具にされる未来なのだ。


 無残な死をひたすら怖がっていた最初の頃は、あまり考える余裕もなかったのだが、ここにきてようやくそこまで思い至るようになった。


 悪魔がいてもいなくても、どのみち私に幸福な未来などはない。

 そう考えると、どうしようもなく無気力になってしまった。


 そういうわけで、私は五度目の人生では、何も行動を起こしていない。

 何も知らなかった初回の人生をなぞるように、淡々と日々を過ごしていた。

 

 気晴らしに屋敷の中庭へ足を運び、花を楽しみ、ただただ終わりの日を待つ毎日。



 そうして二十歳の誕生日を迎え、数日たった今日。

 明日婚約者の家に入るという、実家で過ごす最後の日。

 

 私は曇り空を眺めながら、ただぼんやりと、侍女に髪を結われているのであった。



 侍女は髪を整え終えると、私にそっと声をかけた。


「リディアお嬢様、終わりましたよ。今日は雨が降りそうですから、お屋敷の中で過ごされてはいかがですか。明日のお仕度もありますし……」


 言いづらそうにしている侍女に、私は苦笑をもらした。

 おそらく父から、私の支度を手伝うように言いつけられているのだろう。

 

(ごめんなさいね……私は嫁入り支度なんて、しなくても平気なのよ。だってそんな未来、来ないのだから……)


 心の中で、侍女に返事を返す。

 私はこの後、どうせ死ぬのだ。何度も繰り返しているから、よく知っている。

 ――なんて、おかしな話はできないので、私は無難な言葉を返した。


「そうね……でも雨が降る前に、少しだけ中庭を歩いてくるわ。今、花園が満開で見事なのよ。雨でへたってしまう前に、花にお別れの挨拶をしてくるわ」


 言い終わってから、ふと気付いた。

 そういえば、初回の人生でも私は、侍女に同じことを言った気がする。


 侍女は私に同情を帯びた眼差しを向けた。


「かしこまりました。どうか、雨にはお気を付けくださいませ。お風邪を召されては大変ですので」


 この言葉も、確か初回に聞いたものと同じだ。


 私は侍女に見送られながら、部屋を出た。

 屋敷を出て、中庭の花園へと歩を進めながら考える。


 ――今世が初回の人生をなぞっているのなら、もしかしてこの後、庭師に花を差し出されるのでは……?


 そう思い至り、私の心は妙に浮き立った。


(……あの時確か、花と一緒に、何かとてもくすぐったいことを言われたのよねぇ)


 初回の人生では、中庭で庭師に花を差し出され、くすぐったいことを言われ、そして悪魔に惨殺された。


 八つ裂きがあまりにも衝撃的で、花前後の記憶は酷く曖昧だ。

 もう一度流れをなぞって、記憶をしっかり補整し直す、というのも良いかもしれない。


 朧気ではあるけれど、なんとなくあの時、素敵な出来事が起きたような覚えがあるのだ。

 今まで、ひたすら憂鬱な百年を送ってきたのだから、少しくらい心浮き立つ出来事を享受しても良いだろう。

 

 私ははやる気持ちのまま、花園へと足を進めた。



 

 中庭の花園はこんな曇りの日でも、ため息が出るような美しさを保っていた。

 

 鮮やかな緑と色とりどりの花に囲まれた、石床の小道。

 蔦と白い花のアーチを潜り抜けると、小さく開けた場所へ出る。


 少し背の高い草花と、低木に囲まれた小さな広場は、周りの世界から隔絶された部屋のような空間だ。

 私はこの場所が大のお気に入りだった。


 広場へ歩を進め、あたりを見回す。

 庭師の青年が草木の間にしゃがみこみ、いつものように手入れをしていた。

 大きなハサミからパシパシと鳴る音が、耳に心地良い。


 庭師は私に気付くと、静かに会釈をした。


(そうそう、彼のこの会釈……懐かしいわぁ……)


 思い出にひたりつつ、私も庭師に笑顔を返す。 


 すると彼はおもむろに立ち上がり、私の前へと歩み出た。

 

 こうして正面で向かい合うと、私は彼を見上げる形になる。

 この庭師の高い背丈は、木を刈り込む時に役立ちそうだ。


 庭師の青年は、少し日に焼けた精悍な顔を空へと向ける。

 低い静かな声で、私に言葉をかけてきた。


「リディアお嬢様。この空模様だと、じきに雨が降りますよ」

「ええ。降り出す前にと思って、急ぎ、花を見に来たのです。この見事な花園も、もう今日で見納めになってしまうので」


 私は目を伏せ、微笑んだ。

 

 そうだった。初回の人生でも、庭師とこういう会話をしたのだった。

 そして私は雨に降られる前に、曇り空の下で死を迎えるのだ。


 庭師は空に向けていた目を私へと移し、それから花園を見回した。

 近くに咲き乱れている、薄紫色の花にハサミを入れる。

 草の茎で器用に束ね、花束にして私に差し出してきた。


 薄紫の小花はスターチスの花だった。

 花束はまるで、夜空に散る星々を集めたかのようで、私はその美しさに感嘆の声を上げた。


「わぁ、なんと綺麗な……まるで星空のようですね……!」

「お嬢様のために手入れをしてきた花です。差し上げます。……あなたの魅力の前では、かすんでしまうような花ですが」


(――き、来たわ……! くすぐったくなってきた……!)


 庭師の返しに、私は思わず頬の内側を噛んだ。そうだ。確かここから、怒涛のくすぐったさが始まるのだ。

 私はソワソワする気持ちを抑えつつ、彼に言葉を返した。


「あまりからかわないでくださいませ。照れてしまいます」

「からかいなどではありません。本心から、そう思っております。……――リディアお嬢様、」


 言いながら、彼は石床に片膝をついた。

 動きに合わせ、サラリと黒髪が揺れる。


 庭師は少しためらいがちに、語り始めた。


「……無礼を承知で申し上げます。私はお嬢様のことを、ずっと恋い慕っておりました。身分をわきまえない愚かしさは、重々承知しております。……ですが、中庭でお姿をお見かけするたび、どうしようもなく気持ちを募らせてしまい……」

 

 私は身じろぎもせず、庭師の言葉を心に受け止める。


「今日この瞬間が、あなたにお会いできる最後かと思うと、どうしても気持ちをお伝えしたく……愚かな庭師の男を、お許しください」


 言い終えると、庭師は私を見上げ、そっと花束を掲げた。

 彼の緑色の瞳が、美しく揺れている。


 私は静かに微笑みをこぼした。


 思い出した……。

 初回の人生で庭師からもたらされた、くすぐったい言葉は、愛の告白だったのだ。

 当時の私は顔に熱をのぼらせ、大いに焦ってしまったのだった。

 

 しかし五度目の人生、今の私の心には、風が吹くような寂しさが広がっていた。

 

(……この素敵な告白は、実を結ぶことなく、どこかへ流れていってしまうのね……)


 彼の告白はこの後すぐに、悪魔によって無に帰されてしまう。

 それに、例え悪魔がいなくとも、婚約者のいる男爵家の令嬢と庭師の関係では、叶うことなどないのだ。


 私は深く息をつく。


 そろそろ悪魔が、雲の間から姿を現す頃だろう。 

 もしかしたらもう、真上に迫っているのかもしれない。 

 私が花に手を伸ばした瞬間に、バラバラにされて、この人生は終わるのだ。

 

 

 ――ならば……

 

 どうせ終わってしまうのなら――……


 

 確か初回の人生では、照れたまま無言で花を受け取ろうとしてしまった。

 けれど、どうせ終わってしまうのなら、今回は少しばかり思い切ったことをしてみようか。


 ふいに私の中で、人生に対する後ろ向きな気持ちが、一周まわって変な方向へ行き、おかしな前向きさに転じた。

 この感覚は人によっては、『やけくそ』とも言うのかもしれない。


 私は彼の目を見つめ返す。

 そしてめいっぱいの、笑顔を向けた。


「あなたのお気持ち、とても嬉しく思います。あなたは、こんなに綺麗な花をお育てになるお方ですから、きっと素敵な人なのでしょうね。……もし私に自由になる未来があったなら、あなたのようなお方と、花に囲まれ、暮らしてみたいものです。――ねぇ、あなた、私をさらってくださらない?」


 我ながら、なかなか茶目っ気のあることを言えた。と、思う。

 鬱々とした人生でも、百年も生きれば冗談の一つくらいは、言えるようになるらしい。


 庭師の青年は驚いたのか、無言をつらぬいている。

 よく感情の読み取れない、なんとも複雑な表情をしていた。


 そんな彼を前にして、私は一人、さて、と気持ちを切り替える。

 

 もう時間だ。全てが終わる瞬間が来る。

 このやりとりも、無に帰るのだ。


 私は一歩、後ろに下がった。

 

 花束へは、手を伸ばさない。

 受け取らない。



 初回の人生では、私が近くにいたばかりに、この庭師を巻き込んでしまったのだ。

 二度目の人生でも、三度目の人生でも、私は他人を巻き込んでしまった。

 

 せめて今後の人生では、一人でサクッと、八つ裂きにされよう。

 五回目の人生が始まった時、私はそう心に決めていた。


(……だから、ごめんなさいね。あなたの花に触れることはできないわ。この先もずっと。あなたに何度、花を差し出されようと……)



 私は目を閉じ、一歩、もう一歩と、後ろへ下がった。

 少しずつ、庭師との距離が開いていく。


 そろそろ悪魔の爪が届くだろう――……



 ――そう思った、瞬間。



 庭師が腰に下げていた大きなハサミを、力一杯、空へとぶん投げた。


「へっ……!?」


 私は思わず、呆けた声を上げた。

 初回の人生で彼、こんなことしたかしら……!?


 ハサミの飛んで行った方を見て、私は目を見開いた。


 悪魔の額にグッサリと、白い光を帯びたハサミが刺さっていた。


 あの光には見覚えがある。あれは――


(――聖騎士の、光魔法じゃない……!?)


 前世と、前々世でお世話になった、悪魔を払う聖騎士の光魔法だ。

 もっとも、聖騎士は長剣に魔法を込めるのだけれど。今輝きを放っているのは、園芸用のハサミである。


 庭師は悪魔を睨み上げ、なにやら短く呪文を唱えた。


 ――その瞬間、刺さったハサミは強烈な閃光を放ち、悪魔とともに大きく爆ぜた。


 ドーン! という、雷が落ちたかのような、音と光。

 これは、この威力は……


(……――四度目の人生で習得し損ねた、上級光魔法だわ……)


 私はいつの間にか庭師に庇われ、その腕の中に収まっていた。

 


 しばらくして、庭師はそっと、私の体から身を引いた。

 視界が開け、私は今起きた事態を理解する。


 美しかった花園には、一面にどす黒いベトベトした液体が飛び散っていた。

 花と緑はしおしおに枯れ、気味の悪い、悲惨な景色が広がっている。


 ――どうやら悪魔は、木っ端みじんに散ったようだ。



 そんな惨状の中、庭師の青年は改めて、その手に握りしめたままになっていた花束を差し出してきた。

 

 彼は申し訳なさそうな表情を浮かべ、ポツリと独り言のような小声をこぼした。


「……あなたに花を渡すのに、百年かかってしまった……毎度なかなか守り切れずに、不甲斐ない」

「百年……?」


 私はポカンとしたまま、まじまじと彼を見る。

 目の前に立つ庭師は、黒髪に緑の瞳。背が高くて、もの静かな雰囲気の青年だ――……


 ――あれ? 私はこの姿を、どこかで何度か見かけたような……


 思い至った瞬間、今までの人生の記憶が急激に鮮明になっていくのを感じた。

 

 人生最後の日、私の側で悪魔に立ち向かってくれたのは、いつも同じ人ではなかったか。

 どうして今まで、気が付かなかったのだろう……!


(――と、いうか、もしかしてこの人もループを……!?)

 


 唇を震わせて立ち尽くす私に、庭師は慌てて言いつくろった。


「あぁ、申し訳ございません。おかしなことを言ってしまい……お忘れください。――それで、ええと、この黒いドロドロは……その、なんと説明すれば良いものか……」

「いえ! あ、あの……!」


 しどろもどろな庭師に、私もしどろもどろに言葉を返す。

 

「ええと、お花、ありがとうございます……! 人生百年目の今日、ようやく受け取ることができて、心から嬉しく思います! ……恥ずかしながら、私ったら自分のことしか見えておらず……! 今まで本当に申し訳ございませんでした……そして、ありがとうございました、庭師様……いえ、屋敷護衛さん? あぁ、ええと、騎士様とお呼びした方が良かったかしら。それとも、戦友……?」

「えっ、リディアお嬢様……まさか、あなたも?」


 私の言葉に、今度は青年がポカンとした顔をした。

 驚き固まった彼の手から、スターチスの花束が落っこちそうになる。私は慌てて、花束を受け取った。


 アワアワしつつ、星空のような薄紫の花を抱える。 

 百年目にして手にした花は、どんなに見事な宝石よりも美しく輝いて見えた。

 

 ――と、花を眺めていると、ふいに頭の中に、先ほどの自分のセリフが蘇ってきた。

 茶目っ気を込めた、あの悪戯めいたセリフが……


(……待ってちょうだい……私さっき、なんてことを言ってしまったの……! 「さらってくださらない?」なんて、小っ恥ずかしい恋愛小説のようなセリフを……! やだ消えたい恥ずかしい……っ!!)


 無に帰ると思っていたからこそ、言えたセリフだ。まさか続きを迎えることになろうとは……

 私はのぼってきた熱に顔を火照らせながら、庭師にごにょごにょと言葉をもらした。


「……その……先ほどの私の言葉は、お忘れください……さらってほしいなどと、おかしなことを……」


 私のぼやきを聞くや、庭師は我に返ったかのように、真面目な顔になる。

 そして私をまっすぐに見つめ、耳に心地良い、低く落ち着いた声音で話し始めた。


「私で良ければ、さらって差し上げましょう。幸いなことに、私には五度に渡る豊富な人生経験と、四度目の人生を費やして極めた、上級光魔法がありますから、あなたを路頭に迷わせてしまうことはないかと。そしてなにより、」


 言葉を止め、彼は私に手を差し出す。

 穏やかながらも、どこか勇ましい笑みを浮かべた。

 

「私はあなたのことを心から愛しています。この先何が起きようと、何度でも運命を切り開き、必ずあなたを幸せにします。例え六度目、七度目を迎えようとも、この愛を胸に、あなたの元へ馳せ参じてみせましょう」


 彼の凛とした言葉と眼差しを真正面から受け、私の胸には、不思議な心地の熱が湧き上がった。

 

 フワフワするような、クラクラするような、心地良いのに苦しいような、例えがたい感覚が心を満たしていく。

 おかしな魔法にでもかかったかのように、彼の瞳から目が離せない。なんだかどうしようもなく、幸せな心地がする……



 この気持ちは、きっと……


 この気持ちこそが、恋、というものなのだろう。



 私は弾むような心のままに、彼の手を取った。

 庭師で、屋敷護衛で、聖騎士で、戦友で――……

 

 ――たった今、私の胸に恋心を咲かせてくれた、初恋の相手の手を。


 


 空からポツポツ雨粒が落ちだす中、二人は手を取り合い、笑いながら花園を駆け出した。


 私は長く、思い違いをしていたようだ。

 恋とは、私が思うより、ずっと素敵なものだった――。


 


 







 その年、とある男爵家の令嬢が、雨とともに姿を消したという話が、社交界の話のタネに加わった。


 人さらいにあったか、駆け落ちでもしたのだろうと呆れる者もいたが、多くの人々は、この話の別の説へと興味を向けたのだった。


 その説とは、『消えた令嬢は、悪魔に襲われて木っ端みじんに、跡形もなく引き裂かれてしまったのだ』というものだ。


 なにしろ男爵家の中庭の花園は、気味の悪い真っ黒な液体にまみれ、酷い有様だったそうで。

 後処理に関わった者たちから噂が広がり、世間では悪魔説のほうが定着したようだ。

 ――そちらのほうが話的にもおもしろい、ということもあるのだろうけれど。


 そして人々の噂の波にもまれるうちに、男爵家当主と令嬢の婚約者は、心を病んでいったそう。


 不遇な令嬢と、残忍な悪魔の話を繰り返し聞くうちに、恐ろしさに精神が参ってしまったのだろう。

 彼らには、悪魔の発生源に関して、何やら思い当たるふしがあったようで。


 『自分も悪魔に目をつけられ、八つ裂きにされるかもしれない……』


 なんてことをブツブツと呟きながら、日がな一日、震えて過ごしているそうだ。


 


 ――そんな彼らが『隣国にいる、妙に悪魔払いに通じた庭師の夫婦』の噂を聞きつけて、私財を投げ打ち、救いを求めて泣きすがりに来るのは、もう少し先の話だ。


 庭師の夫がハサミをぶん投げて追い払うのも、もう少し先の話――。



スターチスの花言葉は『変わらぬ心、途絶えぬ記憶』


ここまで読んでいただきありがとうございました。

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