いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て
あの日のことを、カトレアは未だに夢に見る。
『カトレア・ローゼンベルグ。君の所業は目に余る。――婚約は破棄させてもらう』
婚約者に、そう、冷たい目で告げられた日のことを。
カトレアの婚約者だったオーキッド・フェンデルはこの国の宰相の息子だった。彼の生家は父親の役職にしてはあまり裕福でなく、名のある家でもなかったため、古くから続く貴族の名家で裕福なローゼンベルグ家と『婚約』という形で縁を結ぶことになったのは、紛れもない政略的判断だった。
とはいえ、見目のよかったオーキッドをカトレアは一目で気に入り、彼の婚約者となったことは彼女の喜びの一つだった。幼子が人形を気に入るように、カトレアにとってオーキッドは『お気に入りの一つ』だった。
カトレアは5人兄弟の末子で、上は全員男だったのもあって、特に可愛がって育てられた。望むことは何でも叶えられ、与えられる。カトレアは高慢で、我儘な子供に育った。
けれど、年頃にしてはかなり躾けられていたとはいえ、オーキッドはカトレアと同年代の子供だ。婚約者として顔合わせをした時を含め、カトレアの思う通りにならないことも多々あった。それもまた、カトレアにとっては新鮮だった。自分の思う通りにばかりなる中で、そうではないものに出会ったカトレアはそれさえ楽しんだ。
カトレアは確かに高慢で我儘だったが、それは子供のかわいらしさにおさまる範疇だったので、婚約はつつがなく継続された。オーキッドとの付き合い方も覚えた――というよりはオーキッドがカトレアとの付き合い方を獲得した。会えないときは手紙のやり取りなどもした。自分よりも美しい文を書くオーキッドに触発されて、カトレアは字と手紙の書き方を勉強した。
そして魔法の才ある14歳以上の子供が通う『学院』への入学で、オーキッドと共に過ごす学び舎での生活が始まった。
オーキッドはカトレアより1年先に入学していたため、丁寧に『学院』での過ごし方を教えてくれた。それはただ『婚約者』に対する態度でしかなかったけれど、カトレアは少しの優越感に浸った。オーキッドは礼儀正しいが親しい女生徒がいない容貌の優れた生徒として注目の的で、そんな彼に『学院』を案内されるカトレアもまた注目されたからだ。
それから3ヵ月は、平穏でどうということのない日々だった――カトレアにとっては。
彼女にとって変化が起こったのは、ある日校舎の窓から外を眺めた時、ある光景が目に入ってからだった。
それは、平民ながら強い魔力を保持しているということで噂になっている同級生が、オーキッドに笑いかけられている、そんな光景だった。
その時抱いた感情を、カトレアはうまく言葉にできなかった。
気に入りの玩具を取られた子供のような気持ちだったかもしれないし、安直に言えば嫉妬のようなものだった気もした。
ただ、はっきりしていたのは、オーキッドのその笑みが、カトレアに向けるよりも親愛のこもったものであったということだった。
オーキッドの笑みは僅かに口角を上げる程度のもので、それはカトレアに向けるものと相違なかったけれど、その瞳を誰より間近で見ていたからこそ、そこに込められた親愛の違いを読み取れた。
そこからの行動は、思い出したくもない。
平民の彼女を貶めた。理不尽な目に遭わせた。無闇に虐め抜いた。
愚かな真似をした。思い返せば惨めささえ感じる所業だった。
けれどその時は、そうしなければ何かを保てなかった。そうすべきだとすら思っていた。
その果てに告げられた、『婚約を破棄する』という言葉。
それまでに、オーキッドは散々カトレアを諫めようとしていた。それすらカトレアの愚かな真似の原因となったけれど、改善する様子のないカトレアに見切りをつけたのだと――そういうことなのだと認識できるようになったのは、婚約を破棄され、生家に所業を報告され、『学院』を『療養』という名目で自主退学させられた末に遠方の別荘に送られることになった、その道中の馬車の中でだった。
突然、周囲が灰色になった。
そして、それまで「どうして自分がこんな目に」と考えていたのに、スッと「こうなるのは当たり前だ」と腑に落ちた。
急激な自身の変化に戸惑うカトレアの目前、誰もいない空間がジジジ……と音を立て、そこに目だけが赤い、真っ白な男が現れた。
「気分はどうだい、かわいそうで惨めで、哀れな末路を待つだけのお姫様」
意味不明の言葉のはずだった。無礼者だと言い放ってもいいはずだった。
けれどそれもまた、しっくりと来てしまった。
「このままだとあんたは、馬車が崖崩れに巻き込まれて死亡――なんていう運命が待っているわけだが。それが嫌なら、俺と来いよ」
だから、カトレアは差し伸べられた手を取った。
すべての異常を、見ないふりをして。
手を取った瞬間、カトレアは見知らぬ部屋の中にいた。
「今日からここがあんたの城だ。文字通り『城』だぜ。欲しいものはなんでも手に入れてやるし、どんな願いだって叶えてやれる。――あんたを切り捨てた元婚約者様に一泡吹かせてやることだってできるが、どうする?」
カトレアの周囲の色彩は戻っていた。そこは豪奢な部屋だった。王宮に立ち入ったことのあるカトレアでもその豪華さに眩暈がするほどの。
そんな部屋の中で、その男は何もかもどうでもよさそうに立っていた。――否、浮いていた。
カトレアは彼が人の範疇にないものだと、わかり始めていた。
「……わたくし、そんなことを願うように見えますの?」
「少なくとも、自分を切り捨てた婚約者に憤って逆上して一顧だにされず、自分に甘い親族すら目を覆う罪状を並べ立てられても反省も後悔もせずに、遠方に『療養』の名目で閉じ込められそうになった現実をそれでも認められなかった『お姫様』なら、願うんじゃないかと思ったんだがね」
「わたくしがもう『そう』ではないこと、あなたがよくご存じなのではなくて?」
直感していた。この風景にどこまでも溶け込まず、違和感だけを残す男が、カトレアの自意識の急変に関わっているのだと。
「うんうん、いいねぇその目。頭空っぽのお姫様のまんまじゃあ見られなかっただろうな」
そう嘯いた男は、カトレアの推測を肯定した。
「俺は『バグ』。この世界のバグ――欠陥。俺が原因でこの世界は切り捨てられた。だからこの世界は俺の好きにできる。……そういうわけであんたを頭空っぽで愚かで惨めなお姫様の哀れな末路から引きずり出したわけだ」
「なぜ、わたくしにそんなことを?」
「そりゃあ、あんたがこの『物語』の中でいっとう愚かで惨めで哀れだったからさ。『主人公』とお相手役の引き立て役でしかない。盛り上がりを作るための装置でしかない。その挙句には円満に退場の後に陰で死んでると来てる。なんというか、あんたを造形した創造主は、よっぽど恋路の邪魔をする女が嫌いだったんだろうな」
口にしている内容とは裏腹に、からからと陽気に笑う。そういうモノなのだと、カトレアは理解する。
『世界の欠陥』だの『物語』だのはよくわからないが、ともかくこの男は、世界を変える力を持っていて、それをカトレアに使ったのだ。同情ではない。おそらく興味――それ以下かもしれない情動から。
「それで、何か望みはないのかよ」
問われて、カトレアは静かに答えた。
「何も――何も。死ぬ運命から逃れられただけで十分ですわ。……そうあるべき形から逃れられただけで」
『バグ』の影響だろうか。カトレアの脳裏には崖崩れに巻き込まれて泥の中死ぬ自分がありありと浮かんでいた。
それが本来の自分の末路だったのだと、言われずともわかる。そうならない運命を与えられたのに、それ以上を望むのは、『愚かで惨めなカトレア・ローゼンベルグ』を上塗りするだけの行為に思えた。
カトレアの答えに興味なさそうに『バグ』は笑って、「それじゃあこの先どう生きるかだ」と言った。
「俺におんぶにだっこで生きるか、自分の力で生きる術を探すか」
「前者の表現に悪意がありますわね。それで選ぶと思いまして?」
「どうせ選ばないと思ったからな。頭空っぽのお姫さまじゃなくなったあんたは、それを矜持が許さないだろ」
その通りだった。どれだけ未来が見えなくとも、だからといって『バグ』にすべてを任せ、かなえさせる安易な道を選び取れる――カトレアはそんな人間ではなくなってしまっていた。これが突如として現れた『バグ』でなく、長年気心知れた、例えば従者からの申し出ならもしかしたら頷いてしまっていたかもしれないが、それはつまり『甘える』ことだった。いくら自分の望むことを何でもかなえてやるなんて言われてるとはいえ、会ったばかりの人間に甘えられるほど、カトレアは矜持を捨てていなかった。
「自分の力で生きる術を探すか――と言いましたわね。あなたは、わたくしにそれができると思っていますの」
「あんたが貴族としての自意識を捨てられるんならな」
その言葉に一瞬怯む。けれどどうせカトレアは貴族としては死んだようなものだ。否、もしかしたら本当に死んだことになっているのかもしれない。あるいは不可思議な現象によって行方不明になったとでも。こうして『バグ』についてきたのだから。
「貴族の自意識も何も、わたくしはもう、ただのカトレア・ローゼンベルグ――いえ、ただのカトレアでしかありません。培ったものをすぐには捨て去れないかもしれませんけれど、自らの力で生きることができるというなら、できるだけのことはやりますわ」
『バグ』は相変わらず笑っていない目のまま笑みを浮かべて、ぱちぱちと無感動に拍手をした。
「ご立派な決意表明だ。――じゃあ、この城はもう必要ないな」
また周囲の景色が変わる。豪奢な部屋は消え去り、小ぢんまりとした――カトレアの持っていた自室よりも格段に狭い一室に変わる。装飾もろくにない、それが新しい住処なのだと言われずともわかった。
そうして、カトレアの第二の人生が始まった。
カトレアは貴族として身につけた技能を人々に教えることで生計を立てることになった。
礼儀作法や刺繍や楽器のみならず、文字そのものを教えることもしばしばあった。平民の識字率が思っていた以上に低かったことをカトレアは知った。
人々はカトレアを『訳アリの貴族関係者』として理解したようだった。さすがに貴族そのものではなく、貴族同様に育てられた何某かだと思っているらしかった。
カトレアの新しい住居は王都から遠く離れた場所だったので、知り合いに会う危険性もなかった。そもそも『カトレア・ローゼンベルグ』は本来の通り死んだということにしたのだと『バグ』が言っていたので、探す人もいない。
カトレアは自らの足で買い物をすることを覚えたし、自らの手で料理することも覚えたし、自ら稼いだお金で生活することの難しさも知った。
そうこうするうちに、魔王が蘇ったとの報が入った。人々は寝耳に水の様相で恐慌した。貴族にとって近いうちに魔王が蘇るというのはよくよく言い聞かされていたことなので驚かなかったカトレアは、貴族以外の人々にとって魔王というのが寝物語の登場人物でしかなかったこと、その意識の差に驚いた。
カトレアが自ら生計を立てる様をたまに見に来る以外は姿を消していた『バグ』は、「魔王の復活は既定路線だ」と言った。
「『主人公』様が相手役と力を合わせて倒すべき敵、ってのがいないと話が盛り上がらないだろう?」
「では、魔王は倒されますのね」
「それはどうかな。ヒロイン様が怠けてたら負けるかもしれないぜ?」
「……彼女は、そういう子ではないと信じますわ」
「虐め抜いたのに?」
「虐め抜いたからこそ、ですわ」
自意識の急変があったとはいえ、自分が為したこと、それによって知り得たことは変わらない。自分の愚かな虐めに耐え抜いた少女が、『バグ』曰くの『物語』で成し得るとされていることを失敗するとは思えなかった。
思いたくなかった、が正しいのかもしれない。自業自得とはいえカトレアが死ぬべきであったのなら、それを経た先にある未来は拓けたものであってほしかった。
カトレアは恐怖する人々に、このために魔法の力を持つ人間たちは育成されてきたのだと説いた。それはカトレアが当然のように知っていた事実であったが、平民にまではあまり知られていなかったようだった。細々とした活動の末に、カトレアの生活区域はなんとか落ち着きをみせた。
その頃には、カトレアを頼ってやってくる人々も見られるようになった。情報を得ることは精神の安定に繋がる。カトレアに与えられるのはそれだけだったが、それすらも不足していた人々には光明のように思えたらしい。その輪は少しずつ広がっていった。
時折『バグ』が気まぐれに落としていく情報を含めて、カトレアはただただ知っていることを話し続けた。情報の入りづらい辺境で、それは人々の命綱のような扱いになっていった。何か特別な情報網を持っていると思われているらしいと気付いた時も、ある意味では間違っていないとカトレアはあえて否定することはしなかった。
魔王が蘇って一月。長いようで短い時間を経て、魔王は倒された。
その報は街中を駆け巡った。誰もが手を取り合って喜んだ。
カトレアもまた、自室でその報を聞き微笑んだ。
「……彼女は、勝ったのね」
「あんたの元婚約者とその他男どもと一緒にな」
「魔王が彼女一人で勝てる相手だったら、貴族の矜持が丸つぶれでしたわね。貴族が役に立つ場面があってよかったこと」
「辛口なんだか甘口なんだかわかんねぇな」
「そんなあなたは最近存在感が薄いけれど――それはこの『物語』が終わりに近づいているからなのかしら?」
『魔王』との戦いがいわゆる佳境というものなのなら、『バグ』曰くの『物語』は終わりに近づいているのではないかと――そう思い至ってから、カトレアは『バグ』の変化に気づいた。
『バグ』はどこまでも、この世界に在って違和感を覚えさせるようにできている。だが、少しずつ、その違和感があいまいになっていた。もっと言うのなら、『バグ』の存在感が薄まることで、比例して違和感が少なくなっていた。
「――気づいてたか。まあ馬鹿でもない限り気づくよな」
「『頭空っぽの愚かなお姫様』だったら、わからなかったでしょうけれど」
「今のあんたは『辺境の心優しいお姫様』だからな」
『バグ』の当てこすりに笑う。随分と柔らかく笑えるようになったものだとカトレア自身も思う。
「人の噂というのは、不思議なものですわね。過去に為したことなんて関係なく、見たいように物事を見る」
「そうしたのは俺だし、あんただけどな」
「住みよい環境をつくるのは大事でしょう? わたくしは自分の力で生きていかなければならないのだから」
「そうだな。俺の反則技ももうそろそろ使えなくなる。だが、それでも問題ないくらいに、あんたは市井に溶け込んだ。自分の立場を確立した」
人々があまりにすんなりとカトレアを迎え入れたとは思っていた。その裏では、きっとこの男がなにがしかの『反則技』を使っていたのだろうとわかるくらいには、カトレアも人心というものを知っている。
「お礼を言いますわ、『バグ』。――とても、今更ですけれど」
「礼を言われたくてしたんじゃねぇからな。でもまあ、受け取っとくか」
『バグ』はこの世界の枠の外にいるのだと、その頃にはカトレアは理解していた。この世界に在るものすべてが『バグ』にとっては本来同じに無価値で、けれどその中で『いっとう愚かで惨めで哀れ』に見えたからカトレアには彼の手が差し伸べられた。何かが少し違えば、手が差し伸べられたのは『魔王』だったかもしれないとさえ思うし、たぶんそれは間違っていないのだろう。
『物語』には終わりがある。『物語』ではなく『世界』の欠陥だというのなら、その『物語』が終わった後にも『バグ』は存在できるのかもしれないし、そうでないのかもしれない――それを糾そうとは思わなかった。どちらであっても、おそらくもう『バグ』はカトレアの前には現れないのだろうと、そう感じた。
「ねえ、『バグ』。もう、わたくしは『いっとう愚かで惨めで哀れ』ではないでしょう?」
「――そうだな。『主人公』でも『悪役』でもないが、真っ当に生きてるひとりの人間に見えるぜ」
たぶん、それが『バグ』の最高の賛辞だとわかったから、カトレアは微笑んだ。
その微笑みを見た『バグ』が姿を消すまで、揺らがずに。それが貴族でも何でもないただの『カトレア』の矜持だった。
あの日のことを、カトレアは未だに夢に見る。
『カトレア・ローゼンベルグ。君の所業は目に余る。――婚約は破棄させてもらう』
婚約者に、そう、冷たい目で告げられた日のことを。
けれどそれはもう、ただの思い出になったのだ。カトレアは、『カトレア・ローゼンベルグ』ではなく、ただの『カトレア』としての人生を歩み始めたのだから。