三 大尾
会津の氏郷の居城で清十郎は待っていた。
大広間で、帰った氏郷の前に清十郎は平伏していた。
「そういう分けで、お前は国へ帰っても罰を受けることはない」
清十郎は複雑な気持ちで聞いていた。
「だが、居づらくなることも分かる・・・数ヶ月したら儂は正宗公に三浦家を貰い受ける様に申し入れる」
清十郎は顔を起こした。その目からは涙の筋が。
「・・・それはなりませぬ。他の御家臣はなんと思いましょう」
「皆は納得じゃ。儂は家臣の為なら何度でも同じ事をする。のう!」
清十郎の後ろには世之介を初め、主立った家中の者どもが座っていた。
世之介が言った。
「清十郎。心配するな。御屋形様の為に儂等はいる。お前もそうするなら、なにも憂慮はいらぬ」
蒲生氏郷は一代の英傑である。優れた統領はこの戦国時代に数多く排出したが、蒲生家がここまで生き残れたのは、氏郷の英断と家臣からの信頼があったからだ。ただ、それが二代目に受け継がれるとは限らない。平和な時代になるとそういった人物への希求力がなくなってくるのだ。哀しいかな、次の世代に蒲生家は滅びる・・・
「これを持って行け」
清十郎に渡されたのは、金のキリシタンのクルス(十字架)だった。秀吉はキリスト教を禁じていたが、氏郷はクリスチャンを捨てていなかった。
「正宗殿はこれを新たに首につけたお前を見て、関白様の手前、あまり良くは思わぬだろう。そこがまた付け目じゃ」
かくして清十郎は無事、伊達家へ帰還し両親に再会した。そしてその後、氏郷の約定通り蒲生家へ迎えられた。
氏郷臨終の時、世之介等と共に追い腹を立派に切り、後を追ったという。
原典 『常山紀談』
了
御読了有り難う御座いました。
大名の家臣がこの様に容易く主を変えることがあるのか、と疑問を持たれる読者もいらっしゃると思いますが、それは徳川時代の安泰の頃の話です。
確かに終生、主に仕えた武士も多かったと思いますが、戦国期は能力有る武士はその主を変える事が可能でした。江戸時代の儒教的な教育で歯牙を抜かれる前の、義に生きることが出来た時代なのです。そのような武士達の物語を語っていきたいと思います。