泊地にて
意気消沈という言葉がぴったりだったように思う。
芙蓉に協力を断られた私は、薄暗くなった街路をいじけるようにのろのろ歩いていた。
あの後、少し気持ちが落ち着くまで店の奥で休ませてもらって、彼女の仕事を盗み見たりしながら、結局閉店時間まで居座ってしまった。
やっぱり真っ直ぐな彫りをしていて綺麗だなとか、角に向かう目つきが気高いものだなとか、感じるものはたくさんあった。
だが、それは私の憂鬱を晴らしてはくれない。結局は諦めるしかないということが、頭から離れてくれない。
事件がどうなっても、答えを知ることはできるだろう。
私が望むなら、行貞さんという優しい語り部を通して、多くを隠されたまま知るだろう。
けれど、それでいいのだろうか。
いつまでも、そうして揺かごの中であやされているだけでいいのだろうか。
――疑念に沈む私の脇を通り抜ける人々が、急に条に見え始める。
はっとなって周囲を見回せば、少し先を行く輝きを追うように人々が歩いているのが見えた。
あの日投げ出された広すぎる天とは違う、ほんの少しだけ先が見える視界。
――じゃあ、この視界で私はどう見えるんだろう。
きょろ、きょろ。視線を廻らせれば、条は私の前と後ろに同時にあった。
まるで、どちらかを選ぶ分岐点がこの瞬間なのだと、そう教えてくれているように。
「そういう、ことなの」
ここで帰るか、帰らないか。
ほんの些細なはずのそれが、私を二つに引き裂いている。
くらりとめまいがした。恐怖で足が震えた。こんなにも突然に選ばなくてはいけないことに、備えてなんていなかった。
だが……選べるのだ。
『だから望むのなら、君はたどり着くことが出来る』
ああ、きっと彼はこの瞬間までもが見えていたんだろう。
だから、あんな風に、退路のことを書き記したんだ。
「私は――」
私は踵を返す。流れる条を遡るように、芙蓉の店へと戻る。
そこで、全てを知ることが出来るはずだ。
犯人も、母のことも、芙蓉があんなにも申し訳なさそうにしていた理由も。
だから――私は走る。
***
芙蓉の店の近くまで戻ると、閉店時間をすぎたはずなのに暖簾が出たままで扉が開いているのが見えた。
幸い、他の店からは明かりが消えている。
向こうに気づかれないよう、他の店の影に隠れるようにして様子を窺うことにした。
あの申し訳なさは、これなのだろうか。あんなに文句を言ったのに、夜間の営業をしているという?
いいや、それだけであそこまでの声を出さないだろう。彼女はきっちり対策さえしているなら、あっけらかんとしていられる女だ。
ならば、これはきっと――。
思考がそこへ至る寸前、ざりと地面を擦る音が聞こえた。
足音。誰か来る……!
呼吸音すら聞こえないよう、必死に息を小さくして気配を殺す。
そうしてしばらく待つと、近づいてきていた足音の主がぬっと視界の端から現れた。
手に提灯を持ち、少し急いているような足取りで現れた人影は、一見母によく似ていた。
角が伸びていないことや、独特の陰のある顔のつくりも、その印象に拍車をかける。
距離が遠い上に、顔の辺りが薄暗くて細かな顔貌が見えないのが本当に悔しくてならない。
それさえ掴めたなら、きっと別人かどうかの確信を持てただろうに。
「もし。受け取りに参りました」
そんな忌々しさを抱えていると、声が聞こえた。
とんとんと戸を鳴らし、到着を告げる女の声。
……違う、これは母の声ではない。
母の、とても通り良いハリツヤのあるものとは全く別だ。
か細く頼りなさすぎるそれは、もっと陰鬱としたもの。
よかったと思うと同時、張りつめた糸が切れるように、その場にへたり込んでしまった。
そんな私をよそに、状況は進んでいる。店の戸を開けて、芙蓉が女を迎えた。
その手には、包みが見える。彩角の指導を受けたときによく見た、角だけを渡す時に使う箱。
それを見て思い出した。
繋角師でもうまく直せないような折れ方をしたもののために、別人の角をあてがうことがある。
一年も待てば新しい角が生えてくるといっても、その間、角のないままで過ごすのは恥があるからだ。
そういう客のために、予め彫りを施した角を用意するのも、仕事の一つなのだ。
とはいえ稀な仕事だし、私には関係がないから忘れていた。
なるほど、そうか。犯人はこうして短期間に複数の店を渡り歩いたのだ。
これならば、本人の角がどんな状態であれ、店主の技量を確かめることができる。
そして、それが目当て通りのものでなかったのならば……!
「この場で見てもよろしいですか?」
「ええ」
無警戒に芙蓉が包みを解く。どうして、わかっているはずなのに。
そう思いつつ、力の抜けたせいでうまく動かない体を無理やりに働かせる。
……一歩、どうにか影から飛び出す。
女が、形相をゆがめた。嘆きと怒りの入り混じるそれは、まるで般若面のよう。
「どうして……こんな、こんなものをォ!」
……二歩、道を飛び越えながら懐に入れて持ち歩いていた鉄扇を抜き出す。
女が叫びながら提灯を芙蓉へ投げつけ、懐に手を入れる。
芙蓉が戸を閉めようとして阻まれる。
……三歩、ダメだ届かない! 間に合わない!
「芙蓉!」
叫ぶ私の声に女がピクリと背を揺らした隙に、どこからともなく現れた、私とは別の影が彼女を地面に引き倒した。
暴れる女の腕をねじり上げ、しっかり拘束するとその人影はため息を吐いた。
見覚えのあるその顔に、私は戸惑いを隠しきれない。
「えっ、お、お母様!?」
「もう、危ないことはしないでねっていったのに」
店の明かりに照らされたその顔は、見知った母のものだった。
***
つまりどういうことだったのか。
その事情を、母はあの騒動から数日してから教えてくれた。
私が色々と嗅ぎ回る裏で、母も犯人を追っていたのだという。
あの人物は、母の実家である白綺の人間で、外に出せないほどの偏執の病を患っていたらしい。
それが脱走したので、捕まえるのに協力していたと。
もはやほとんど本家とは関係がないが、一応は育ててくれた恩もあるし、ということらしい。
突然誘われた墓参りへの道中で、そう説明された私は素直な感想を言った。
「それならそうと早く言ってくれたらよかったのに……お義兄様や行貞さんも力を貸してくれたでしょう」
あの人達の性格上、間違いないだろう。むしろ、喜びのあまり余計な手まで回しそうだ。
私の言葉に、母は舟を漕ぐ手を止めて、困ったような顔をした。
「まあそうだろうけど、これはウチの問題だったから」
迂闊に他家の手を借りることは、三大家として名に傷が付くということなのだろうか。
あるいは騒動の元凶であるからこそ、自分たちだけで終息させなくてはいけないと考えていたのか。
いずれにせよ、その意地のせいで捜査が後手後手に回ったことに変わりはない。
「頼っていたら、もっと早くに済んだかもしれないのに……」
救えたかもしれないものを取りこぼしたことを、彼らはどう考えているのだろう。
私の言葉に、母は何も答えなかった。
それは彼らなりに十全を尽くした上で、この結果だったということなのかもしれない。
それからしばらく黙ったままだった母は、ふと思い出したように、目的の区画に向かうべく漕ぐのを再開した。
墓所に響くじゃぱじゃぱと水をかく音と、からからと風車の回る音が、私に言葉を放たせるのを阻んでいる。
この話はこれで終わりということなのだろうか。それとも、目的地に着けば続きをしてくれるのだろうか。
そう思っていると、言葉が来る。
「……あんたは、どう思った。あの子を見て」
突然の問いに、少し考える。
理想の角を求めるがあまり、誰かを殺すに至った女性のことを。
母に取り押さえられた後、駆けつけた邏卒に引き渡された彼女には、反省の色すらなかった。
人を殴り殺そうとしたという自覚があってなお、それが正しいことだと信じていた。
『悪いのはあいつだから。糾そうとしただけなのに。いいことでしょう? どうして?』
ひたすらそう繰り返す彼女は、誰がどう見ても正気ではなかった。
「ええと……怖いな、って」
「はは、だろうね」
私の答えに、母は面白そうに笑った。
「私たちにも、あの狂気の元になった血が流れてるんだよ」
「それは……だから本家の人の話、でしょ?」
つい先日、誤魔化されたことを改めて訊ねる。
「私もそうだと思ってた。恋をするまではそうだった……」
もう一度この話をしたということは、つまり……。
「私は、殺したことがあるんだ。恋敵だった人を」
「お母様が……?」
「そう、そしてそれは」
ぎ、と舟が止まった。いつの間にか、目的地に着いていたらしい。
二本の風車が絡まるようにして湖面から顔を出している。
それはここに、二人のヒトが眠っていることを表していた。
「……ここに眠る、私のご主人様のこと」
「それって……」
母が仕えていた人。それは、行貞さんの前妻にあたる人だ。
流行病で倒れたはずの人。けれど、真実は違った。
「どうして?」
「んー……まあ、色々なものが重なって、かな。私が抜け駆けをして、定子様は最後まで流水殿に手を出せなかった。二人とも真面目で、だから結ばれなかった。私はまんまと横から種を盗んだわけだけど」
それは、きっと行貞さんのところへ嫁いでくる前の話だろう。
ああ、確かに、これは母を嫌いになりそうな話だ。
なにせお前は横恋慕の子だと、そう告白されるのだから。
けれど、不思議と聞きたくないと拒む気持ちはなかった。
私は、黙って言葉の続きを待った。
「だからバチが当たったのかな。すぐ、あの人との子だって見抜かれちゃった。行貞様との子供がなかなかできなかった定子様は、心を病んでしまって……あんたを、欲しがるようになった」
その話を聞いて、以前墓所へ来た時に聞いた声が耳元で蘇る。
行貞さんを愛せなかったと言った人。意識すらしていなかったと言った人。
釣り目がちで、すっと通った鼻筋を持つ美しい人だった。
似ているところは少ないはずなのに、どこか母に似た雰囲気をしていた。
あの人がそんな風に狂気に落ちるだなんて、想像するのが難しかった。
けれど、だからこそ血の病は恐ろしいということなのかもしれない。
そして当時侍女である母は、そこから逃げるべくもない。素直に差し出したところで、赤子が無事で済む保証もない。
だから……。
「だから、殺したんですか?」
「うん。あんたを守りたかったし、それに」
「それに?」
「定子様に殺してって頼まれたから。あの時のあの方は辛そうで、見てられなくて……だから殺したというか、自殺の手伝いをしたっていうのが近いのかな。まあ、やったことは変わらないけどね」
母は少し悲しそうな顔をしながら、自分の掌を見つめていた。
そこには確かな愛情があった。それだけ大切に思っていたことが伝わってくる。
母だって狂気に落としたかったわけではないのだろう。
恋に突き動かされるまま、一夜の過ちを犯してしまっただけ。
そうして芽生えた命を、殺すことができなかっただけ。
それが母の罪。本当なら、母だけで終わるだけだった罪。
けれど、色々なものが少しずつ掛け違いになって、別の死人が出た。
その責任を、私は背負わされたのだ。
だから行貞さんも嫌いになるという話なのかもしれない。
それは、この命そのものが罪だと、そう口にしてしまったようなものだから。
……けれど、湧いてくるのは嫌悪感よりも、悲しさだけだった。
どうしてそうなってしまったのだろうという、寂しさだけ。
ほんの些細な出来事から生まれた狂気は、あまりに多くのものに爪痕を残したのだ。
「ねぇ、その間、私のお父様はどうしていたんですか?」
その事が、少しだけ気になった。きっと、その人は何も知らないままだったんだろうけど。
「あの人は最後まで知らなかったと思う。あんたのことも、私が殺したことも。流石に、定子様が死んだことは知らせたけど」
「なら、まだ生きて?」
問いに、母は首を振る。
「ううん、あの人も死んだ。何年か前に病気でね。もしかしたら、定子様が連れて行ったのかもしれない」
「じゃあ……二本目は、その人の?」
「うん。死んだ後くらいなら、一緒に居てもいいでしょって」
ああ、ならあの日、私に助言くれたあの首の人は、私の父だったのだ。
どこかで見たような目つきをしていた人……気づいてみれば、それは私のものによく似ている。
「その人、彩角師でした?」
「なんで……ああ、会ったこと、あるのか」
「はい」
確信を得るための問いに返ってきた言葉で、私は答えを得た。
その人は、それはそれは腕が立って……そして、朴念仁だったんだろう。
角のことしか頭にないような真面目な職人で、そのくせ、母に誘われたらあっさり手を出してしまうような子供のような人だったんだろう。
どうしようもないクズだけど……好かれるだけの、輝きを持っていたんだろう。
「なんだ。私の時は、二人とも出てきてくれないくせに」
その口調は、ひどく拗ねたようなものだった。
この墓所は、当人が眠る風車の前で眠りに入れば、夢の中で死者に会えるといわれている。
母がよく墓参りへ行っているのは、大切に思っていることに加えて、どうにかして二人に会いたかったのかもしれない。
「……まあ、会いたくないよね。自分を殺した相手になんか」
「ううん、心配してましたよ」
私の言葉に、母は目を瞬かせる。
「定子様が?」
「はい。すごく、わかりにく言い方でしたけど……」
あれは、たぶん……。
「気にし過ぎないで、ってことなんだと思う」
まだそこにいるのね、というのは、先へ進めていないことを心配していたのだろう。
いつまでも喪に服していないで、さっさと次へ行ってしまえと。
そう簡単に割り切れないと、あの人もわかってはいるのだろうけど。
それを直接言いに出てこないのは、お互いに気まずいものがあるのかもしれない。
「気にし過ぎないで、か……ずるいなぁ」
はは、と笑う母の声は妙に乾いていて、ぞっとするものだった。
「ねえ、お母様はどうして急に話してくれる気になったんですか?」
今まで、何度もはぐらかされてきたのに。
「流石にそろそろ、あんたも大人になったからいいかなって……」
声にはひどい諦念の色があった。
そこには解放された喜びなどはなく、疲れ果てた末のため息のようだった。
「寝ましょう、今すぐ」
「えっ、急に何?」
このままこの人と家に帰ってはいけない気がした。
せっかく色々な事が聞けるようになりそうなのに。
私の知らないお父様について、もっと聞きたいのに。
疲れ切った母は、きっと死んでしまう。
母は強い人だ。けれど、それに見合うくらいの病を抱えている。
なにせ、主人の想い人に手を出してしまうくらいなんだから。
「今ならたぶん会えるから。会って、喧嘩してきて」
「ちょ、ちょっと」
舟の上、狭い中で逃げようとする母に縋り付く。
「じゃないと、お母様が死んじゃいそうでいやなの」
「そんなことしないよ」
「わからないじゃない。人を殺せるくらいの恋をしたんでしょう!? 今でも、好きなんでしょう!? だから」
「あーあー、言わないで恥ずかしいから! わかった、わかりました」
しぶしぶと言った様子で、母は横になった。
目を閉じるその姿を見つめながら、私は祈る。
ちゃんと、夢の中で会ってくれますようにと。
それから、しばらくして。
一眠りした母は、晴れやかな顔をして目を覚ました。
「会えました?」
「……うん。馬鹿ねって言われたよ。でも、仕方ないじゃない。気にしないわけないよって喧嘩した」
そう語る声は、とても楽しそうで。
「楽しかった?」
「なの、かなあ。でも、うん、ありがと水希」
微笑む顔からは、ずっとかかっていた影が晴れているのに気がついた。
だけど、それは、いつだって戻ってくるものだ。
私たちの根っこに、あの病がくすぶり続けている以上、無くすことはできない。
だったら、気にならないよう別のことを押し付けよう。
「じゃあ、そのお礼にお母様に新しい仕事をあげる」
「はぁ?」
「私、すぐ子供を作るから。行貞さんが帰ってきたらすぐ」
「いやそんな簡単には……」
「ええ、わかってますとも」
私たち飾角族は子供が出来にくいといわれている。子を成せずに死を迎えるものも、そう珍しくはない。
だからこそ、定子さんは狂ったのだ。果たそうと思った義務すら果たせず、膨れ上がる恋心し焼き尽くされて。
それに、もしそうでなくとも、母をこき使うために子を成すだなんて、罰当たりもいいところだろう。
けれど。けれども。
――それでも、と私は思うのだ。
この人にもっと生きていて欲しいと。もっとたくさんのことを教えてほしいと。
だから ずっとずっと楽しくいられるように、たくさんの笑顔でこの人を、みんなを囲もう。
私たちには、それが出来る確信がある。
そういう条が私の前に続いているのがわかる。
その意思を視線に込めて母を見つめていると、困ったような、呆れたような顔をされた。
「わかった、わかったよ。ったく、誰に似たんだか」
「お父様、なんでしょ?」
「本当にそっくりだよ。そんな目をされたら降参です。はぁ、孫見せる代わりに楽させるつもりはないって?」
「まだまだお母様は若いんだから当たり前でしょ」
「まったくこの子は……」」
そう言ってため息を吐く母は、どこか期待するような笑みを浮かべていて。
この笑顔を見続けるために、私は頑張ろうと思った。
***
――だから、そのためにしておかないといけないことがある。
もうすぐ帰るよという文を受け取った私は、行貞さんの乗った船を待つために港へ向かった。
中層街区から下層街区へ、からから回る滑車の音を聞きながら運ばれて。大樹辺縁の街区から、桟橋を繋げて作られた漁師たちの住む街を抜ける。
歩いて、歩いて、歩いて。
自分の住む街が、大きな樹なのだと実感出来るほどにその足元から離れた場所。桟橋の先端部、ふわふわとした、頼りない地面のそこにたどり着く。
港では、水面から昇る気嵐で煙る視界の中、漁師や水運業者たちが忙しなく辺りを駆け回っている。
この都市の生命線だけあって、視界不良の中でも事故が起こらないようにさまざまなヒトが船を導いていた。
明かりを灯した浮標で羽休めをしている翼人たち、暗礁に乗り上げないよう警句を飛ばす水鱗たち。
そんな彼らに従って、面積の限られた船着場に入るため、巧妙にすれ違う小舟たちの動きはどこか曲芸じみていて、見ていて楽しくなってくる。
活気に満ち満ちた彼らの邪魔にならないような位置取りをして待っていると、さぁと冷たい風が吹き抜ける。
爪を立てるようなその愛撫に目を細めると、気嵐がわっと割れて大きな交易船の姿が見えた。
その甲板で、到着を今か今かと待つ人々の中に、青色の布を角に巻いた人が見えた。
私が編んで贈った、目の刺繍が施されたそれを誇らし気に掲げる彼は、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべている。
いつもとは違う、きっちり襟を正して着物を着込んだその姿は、家の中で見るものとは別人すぎて、なんだかおかしくなってしまう。
「そんなに早く見つけて欲しかったんですか」
向こうも私に気がついたのか、手を振ってくるのが嬉しくて、手を振り返す。
これからこの手でひどいことをするというのに。
それから、誘導に従ってゆっくりと入港してきた船が横付けするのを待って、走り出した。
着岸の衝撃でまだ地面はふわふわとしているけれど、それがかえってちょうどいい。
「行貞さん!」
声を上げ、駆けてくる私を見て、港へ降りた彼は何かを悟ったような顔をして腕を開く。
どうぞと誘うようなその姿。ありがたく受け止めて、跳んだ。
「この、バカ!」
――どんと彼の腹に深く沈んだ手に衝撃が返ってくる。
こうなる未来も見えていただろうに、避けようとすらしない。
そういうところが馬鹿だっていうのに。
私のお転婆に、周りの人は少し驚いて足を止めたけれど、行貞さんが嬉しそうにしているからか、すぐに仕事へ戻っていく。
そんな無関心の中で、彼は笑う。
「その様子だと、無事事件は起こって、解決できたのかな」
痛みを堪えた声が頭上から降ってきた。暖かな腕が、私を抱きしめる。
ずっと仕事漬けだったのだろう。体には、祭祀に使う香の匂いが染み付いていた。
それを感じて、ムカつきが増していくのを感じた。
「はい。だから、こうしています」
「僕の奥さんは暴力的だね」
「これからは、そうさせないでください」
めり込んだ腕を引きながら、彼を見上げる。
痛いはずなのに、どこか嬉しそうな顔。
その瞳から感情はうかがえない。今は、まだ、彼の隠し方を読み解けない。
でも……。
「これからは、もっと共有してください」
「僕だって、怖いんだよ。嫌われたりするのは、得意になれない」
星読みはあまりに多くのことを知ってしまう。
よくないことを誰かに伝えるのは、いつだって恐ろしいだろう。知りたくないと拒むのは、当たり前だろう。
だけど、その隣に立つと決めたのだ。
「安心してください。嫌いませんから。隣に立ちますから」
だから、一人で抱えないで。
その眼に映る景色を、一緒に見せて。
そう想いを込めて、彼の瞳を見つめ返す。強く、強く、睨みつけるように。
――ふと、周りを行き交う人々が条へと変わる。
それは星読みの世界。歴史の轍が犇めく光条の夜。全てが遠のく、孤独な天。
だけどもう、そこは一人きりの場所じゃない。
「ありがとう。君は、優しいね」
「奥さんですもの」
「そっか、そうだったね……」
彼の指が、私の前髪をくすぐる。
嬉しそうに微笑んだその唇が愛を囁く。
「ああ、清き竜胆の君。僕の愛しい連星。これからは君の願うように笑顔を満たそう。そのためにたくさんのことを教えるよ」
「知らなくて済むようなことも?」
「もちろん。知らなくてよかっただなんて言っても、やめないよ」
「受けて立ちます」
軽薄な笑みではなく、本当の笑顔を満たしていけば、きっと私たちは幸せになれる。
彼の瞳には感情が隠れることはなくなるだろう。
母の目の翳りを払うことができるだろう。
だから、
「頑張りますよ」
「うん、ほどほどにね」
手を繋いで家へ帰ろう。
ぐっすり休んで、それから次のことを始めよう。
ゆっくり、ゆっくりと、私たちの光を、世界に刻んでいけばいい。
後世の星読みが、私たちの子供たちが見たときに、驚いてしまうほどに美しい軌跡を。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました
この物語を気に入っていただけたなら幸いです
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