第七十七話・呂后
中国史にはスケールの大きい悪女が出てきます。その中で有名な大物はこの三人。「=(イコール)」でつないでいる人名は、別呼称ですが同一人物です。
● 呂后=呂雉、
● 則天武后=武則天、
● 西太后。
彼女たちが三大悪女とされるが、中国史にはそのほかにも結構な悪女が出てきます。どれにせよ、権力を一度掴むとやることのスケールが大きい点、残忍さの発揮では明らかに日本史上における女性陣の負け? です。
今回はその中で呂后を取り上げてみます。これから書く話は全部紀元前の話です。BC紀です。中国史は本当にスケールが大きくて、統治権力をめぐっての統治者の政敵に対する残忍さが世界一のような感覚があります。
呂后。
この人の結婚相手が漢の高祖、劉邦です。実の父親が当時若かったヤクザものの劉邦を気に入ったのです。劉邦とやらは将来大物になるだろうと一回りも年下の愛娘、当時名、呂雉を嫁にやったのです。劉邦は親分肌の侠客であり、実家の農業を嫌って酒色を好む無頼漢、普通ならば結婚させてしまうと、苦労が目に見えている。かわいい娘を嫁にやるはずはないだろうに……それでも父親は劉邦をいずれ天下統一をする人相と気運があると見抜いたとされます。呂雉は当時は素直だったので、素直に嫁いで劉邦が遊び歩いている間、せっせと舅、姑とともに農業に励んでいたといいます。
時は戦乱の時代。そのうち劉邦は兵をおこす。手下が増え呂雉は忙しくなる。留守を守りつつ、時には手下にご飯を食べさせる。この辺りは秀吉の糟糠の妻、寧々(ねね)を思い出させます。最も呂雉の場合は紀元前なので寧々よりもずっと前の時代の話ですね。夫としての劉邦は、戦ばかりで子供をかわいがらず、逆に敵兵に追いかけられそうになると、実子なのに邪魔にして馬車から追い落とそうとする。子供を馬車から落とすとその分体重が軽くなるので逃げる速度が上がるからです。劉邦はひどいお父さんです。生きるか死ぬかの瀬戸際でもこれは母親としては許せない。呂雉はやめてと劉邦にしがみつく。しかし、とうとう子供が落とされる。それを見て呂雉は泣き叫ぶ。部下が子供を助ける。しかし劉邦は邪魔だと子供をまた突き落とす。この繰り返しです。究極の虐待です。呂雉の心痛はいかばかりか。そういうことの積み重ねで寡黙でおとなしかった呂雉の心は強く鍛えられていく。
劉邦は宿敵項羽を下すとついには天下を取ります。漢の時代の始まりです。呂雉は呂后とされました。まだ二十代後半の若さです。しかし当時ではもうおばあさん扱いだったのではないか。劉邦は政治が安定するとあいもかわらず女性遊び。愛妾がたくさんいて、古女房で年をとった呂雉のところへは寄り付きもしない。劉邦は、そのうちの戚夫人が一番のお気に入り。どこへでも連れて歩く寵愛ぶり。戚夫人もそれをカサにきて、呂后の息子を差し置いて戚夫人の産んだ子を皇太子とさせようとします。劉邦は呂雉が産んだ気性の優しい皇太子よりも、戚夫人が産んだ如意のほうが己に似ていると思っている。
苦労して夫に尽くしてきた呂后はこれに怒ります。しかし劉邦に向かっては、夫といえども天下者、面と向かって怒れなかったようです。これも戚夫人がわが夫、劉邦に皇太子の地位をねだるからだと恨みます。劉邦は戚夫人の部屋に入りびたりで会うことすらかなわない……呂后は劉邦を一番に支えてきたのはこの私だというプライドがある。おのれ、今にどうにかしてくれようかと思っていたことでしょう。
そんな中、劉邦が死にました。享年六十一歳。戚夫人の子供はまだ正式に皇太子になっていません。まだ年若い戚夫人だって劉邦しか頼る人がいませんので愕然とします。
さあ、ここからは今まで耐えてきた呂后のターンです。積年の夫への恨みと夫への寵愛をカサにきて皇后である自分を馬鹿にしていた仕返しが堂々とできる。ここから呂后は後世に残る人豚事件を起こします。まず憎い戚夫人を捕まえ、話せないようにまた自殺できないように舌を引っこ抜き、耳を刺して聞こえないようにし、亡き夫が愛した美しい目玉をくり抜き、手足を切り落とす。当時のトイレはぼったん式というか、そのまま落として豚に食べさせていた……呂后は瀕死の夫人をそこに放り込む。
それでも夫人はまだ生きている。なんとしぶとい女だろう。でも死ぬのは時間の問題であろう。勝利の快感に酔いしれた呂后は己の実子、皇太子を呼び寄せ「ほうら、私たちの地位を脅かした女の末路だよ、よかったねえ」 と見せる。皇太子は優しい人だったのでショックで倒れ、そのまま生きる気力を失い病気になったあと死んでしまう。このあたりは呂后の誤算だったと思うが、紆余曲折の末、己自身が皇帝になり政権をとる。
お父さんの指示で十五歳以上も年上のやくざなおじさんに嫁いで苦労した女の子。長じてそのおじさんは漢帝国の創始者となる。女の子は皇后としてあがめられる。でも幸せではなかった。呂后は劉邦の死去後十数年の政権をとったが、宮廷内はまさに専制君主で劉邦直属の部下であっても容赦なく皆恐れたという。皮肉なことに、平民たちは戦がなくなったということで呂后の統治下では国が栄えたので良君主とされている。呂后もまた劉邦と同じ六十一歳で亡くなっている。
どうして私がイラクサエッセイで長々と書くのかというと、運命に流されていたようでも最後の最後は人間どうなるかはわからないことが歴史で証明されているからです。劉邦が長生きしていればおそらく呂后は皇太子ともども冤罪になり廃嫡のうえ、殺されていたでしょう。だからこそ許せなかった。その思いは人を窯変させる。人格を変える。そして転がり込んできた権力がその鬱屈した気持ちを発散させる。
何しろ紀元前の話です。呂后は権力に酔いしれたというよりも、たまたま劉邦の正妻だったという理由で劉邦の死後は自動的に権力者になった。国を富ませるという気概もなく、夫の寵愛を盗んだという理由だけで恨みを爆発させた。このあたりに彼女の普通らしさを逆に感じます。ほかの悪女とされる則天武后や西太妃のように皇帝を魅了した美貌や教養の豊かさをまったく感じさせない。それでも私はそんな呂后が好き。彼女が人豚を作った時の勝利感がわかるような気がするから。そして今までの無視され馬鹿にされてきたことの仕返しができる地位につけたという喜びも理解できる。
戚夫人の産んだ如意のみならず、今までのうっぷんをはらすように己の地位を脅かしたとされる一族は全員皆殺しです。彼女には農業で培えた豊作の喜び、夫が無事生還した喜びなどは忘れ果てる。そして転がり込んできた権力の維持に全力を尽くす。
はた目から見れば、夫や愛人たちから、時には親戚たちからまったく取り柄のないとされた女の逆転勝利です。その代り、人豚事件で実子である皇太子の軽蔑を受け逆縁で亡くしてしまう。己自身が皇帝になったからといって、果たして彼女は幸せになれたのか。充実した人生とはいえたのか。
ある時、宮廷で日食が起こり昼間なのに影ができた。当時は日食は自然現象ではなく、不吉な兆候だとされていた。呂后は「私のせいだ」 とつぶやく。彼女の心情いかばかりか。それでも後戻りはできない。
日々、暗殺を恐れて部屋に閉じこもっていた彼女。今わの際に、もう何も思うこともない、もうどうでもいいや、とつぶやいて死んだのではないだろうか。呂后の死去後、彼女を取り巻いていた呂一族の粛清があったのはご承知の通り。宮廷における彼女の権力はあっても統治能力はほぼゼロ。死去と同時に一族は殺される、ということは一族以外からは評価されてないうえに、慕われていなかった。司馬遷の史記に残されたおかげで「人豚を作った悪女」 とだけ有名になってしまった。わずか数行の史記の記述でもって私は彼女のさみしさを理解しているつもりだし、理解をしてあげたいと思う。
著者注:平凡社版、中国の古典シリーズ司馬遷著、「史記」 上巻の一項「呂后本紀」 を参考にしています。




