第六十八話・海外における日本人旅行者同士の奇妙な距離間
私は地理が苦手です。東西南北がわかりにくい。当然大好きな旅行先、特に海外での迷子エピソードがたくさんあります。迷子になったすえ、老人ホームに迷い込んだり、危なそうな人にからまれそうになったり。なので旅行先での移動は必ず日の当たる時間と人通りの多い場所のみ。それで今のところ、ひどい被害にはあったことはありません。また近年スマホをはじめとするPCの普及もあって、連絡方法の多様性、地図アプリの存在も助かる……理論的にはそうなのですが、それでもなお「迷子」 になってしまうので、私は己をアホだと思っています。
迷子になったとき、ああ、また迷子かという慌てる心と、なんとかなるさ、の感情が同居します。ただ本当にわからなくなったときに、同族の日本人にあった時に、うれしかったりします。が、どうもこの感情は私以外の不特定多数の日本人は違うのではないかとわかってきました。今回はこの話。
つまり、海外における日本人は同行者以外は「日本人と会うのを避ける」 傾向があるようだと言いたい話です。
最初にそう思うに至るきっかけの話をします。例によって某国で迷子になった時、バス停があった。そこに私と年齢が近い女性がバスを待っている。背中にはリュックを背負い、手元には「地球の歩き方」 というガイドブックが握られています。ということは彼女も日本人! 私はうれしくなって、手元にある「地球の歩き方」 のページをかざして、同じ日本人旅行者よ、アピールしました。
そして日本語で「迷子になりました。私は、◎◎をさがしています。どちらの方向か、わかりますか?」 と聞きました。
すると彼女は私を見ていきなり顔をしかめました。そしてそっぽを向きながら小さい声で「知りません」 と吐き捨てるように言いました。私は、ぽかーん……ほかの現地のバス待ちの人は、私たちを奇妙に無表情に見守っています。彼女はあらぬ方向を一生懸命見ています。いかに鈍感な私でも「拒絶された」 のはわかりますので、後ろにそっと下がり黙って元来た道を引き返しました。
似たようなことが重なったこと、また帰国便でのトイレで「エクスキューズミー」 と笑顔でいた女性が私を日本人とわかると、ぷいっと横を向いたことがありました……これもあるあるですかね……どこぞの作家さん、多分佐藤愛子のエッセイだと思うが「こんなところにも日本人がいて、いやねえ」 と、佐藤愛子に聞こえるように日本語で吐き捨てた人がいて、思い切りエッセイで毒づいていたことを思い出す。ほんと、コレ……日本人あるあるではないだろうか。
また別の作家、旅行作家のエッセイだったと思うが、よその国のバックパッカー同志はすぐに仲良くなり、同国人だと、どこの州出身かで話が盛り上がるそうですが、日本人にはほぼそれがないとありました。日本人同士が仲良くなることはないとあってなるほど、と思いました。私は女性なのでなんとなく、留学先などで日本人同士でつるむのもアリだとは思うのですが、バックパッカーはしたことがない。いきあたりばったりの旅行を好む人は、予定調和を好まないでしょう。この場合変わった体験、人と違った体験をしたい人ならば、故郷を思い出す日本人同士で仲良くするのは、沽券にかかわるという意味だろうか。それならば日本人同士助け合うというのも無理な話なのかもしれぬとも思いました。
つまり、外国人ばかりの中で頑張る私エライと思いたい人は、日本人を同族意識の裏返しで邪魔者扱いするのもアリなのかもしれません。それは、海外の人から見て奇妙に見えるだろうとは思います。例のバス停で私を拒絶した女性は、日本人丸出しの私を見て旅情の障害物に感じたのでしょう。それは日本人独特の考えから来ているのかどうかはわかりませんが、大変残念に思います。少なくとも私はそうではないから。
私自身は、海外でひょんなところで日本語で話しかけられて驚いたりびっくりしたりの経験もしていますので、逆にうれしいです。でも人間にもいろいろな種類があるので、逆に不快な感情も感じる人もアリだろうと思うことにしています。
今回は旅行者として書きましたが。旅行ではなく、異邦人として住めばまた日本人同士の感情もまた変わってくるでしょうしね。
しかし日本人なら全員、幼稚園児ではみんな仲良く、と教えられているはずです。これは確実に正しいが単なる欺瞞ですね。これが大人になるということでしょうかね。