第四十三話・一を聞いて十を知る人、十を聞いて一を理解する人
少しの説明だけですべてを的確に理解する人は賢いです。呑み込みがよい、頭が良いなど評価されます。逆に時間を使って言葉を尽くし説明をしても理解できるのはわずか……こういう人は、「呑み込みが悪い」 と言われます。私はそれを言われた側です。
子供時代の私は両極端で、印刷文字相手では賢かったと思います。一を聞いて十をしる……しかし、それを言葉で言われると十を聞いて一を知るになっちゃう。周囲から私は頭が悪い子供だと言われました。顔の造作がぼんやり系でしたので余計に言われます。
体育の時間では運動神経も鈍かったので怒られてばかり。特に小学校三年生。期末の成績懇談で私の動きの鈍さを嫌った担任が親に「訳がわからない子」 と言いました。私の書いた絵をふりかざして「人間はこんな大きな目をしていないでしょ?」 と親の前で怒るのです。かわいい女の子(のつもりの絵) が帽子を着て笑っている絵で自分でも気に入っていたのにすごくつらい思いをしました。親は先生に言われたということで、すみませんと謝りました。帰宅してからも、漫画は描かないようにと叱られました。今になって先生の立場になって考えてみますと教師としてはやりにくいというか接しにくかったのかと思います。
私には軽いLD (学習障害)が入っていたと思います。昔の話ですので今のようにLDの言葉自体がありませんでしたので仕方がなかったでしょう。でも皆の前でなぜ言ったとおりのことができないのか、と背中やおしりを叩かれたのはショックでした。そりゃトロイヤツとしていじめにつながるのは当たり前です。
でも四年五年の担任は私の性格を飲み込み、いじめられっ子だった私を一人理科室など置いて好きなように行動させてくれました。「ガイコツがある部屋で一人いて怖くないのか?」 といじめっ子に驚かれたぐらいです。そういうのは平気でしたので、その先生には先見の明があったとしかいいようがないです。その先生が担任になってから成績が急上昇しました。友だちがいないので読書ばかり、それと一人で学ぶコツを覚えたからです。
人の言葉を十を聞いて一をしるような頭の出来にムラのある私……そんな私でも社会に出ていくうちに、世の中にはいろいろな人がいることがわかってきます。学生時代は校内の人間関係しか知らないので、早く大人になりたかったです。私は大人になればいじめがない、と思っていました。
でも実態は結構同じですね……本音と建前の使い分けができるのが大人の対応ということ……それが「普通」 というのがわかりました。
そして無個性が貴ばれるのかと思っていました。少なくとも私の育ってきた環境は家庭でも学校でも「目立つことは悪」 でした。大人になってからも「目立たないこと」 は美徳でした。その壁が精神的に打破できるようになったのは、五十手前でやっと小説を書くようになってからです。
目立たないことは現在でも美徳だと考える人は今も多いです。そういう人だってテレビぐらいは見ますがブラウン管の中で見る芸能界の歌手やタレントはまた別世界、異世界だと思っている。とりあえずこの私はそういう環境の中で育っています。なので、私を知る人、特に親や親戚がこういうエッセイを書いているが私だと知ったら驚愕すると思います。みっともないから全部消せと言われる確率百%です。だから私は匿名で創作を表現できるネット社会に感謝しています。この時代に生きていられて本当によかったです。
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言葉は交流の潤滑油ですが、言葉だけが交流できるというものではないです。内気な性格ゆえに使いこなせない人も多い。逆に言葉は使いこなせてもルールというか一般的な社会的規範のできない人もいます。両極端いるのがこの世です。どのような人でも心からの笑顔を出して楽しく交流できる人が良い人間ではないかなと愚考しております。
私がそんな調子でしたので、似たような人には親しみを感じます。私より呑み込みの悪い人にあたると、よりわかりやすく話そうと思います。忘れてしまう人も何度でもゆっくり話します。時には手書きのメモを渡します。怒られてつらい思いをした経験が生きています。
呑み込みが悪い人に対していらだつ人は、今までその類の経験をしたことのない人です。行動が滞るのがいけないことだと思い込んでいる人は、己の思いがすぐに通じる世界だけしか知らない人です。
一を聞いて十を知る人、十を聞いて一をやっと理解できる人、話半分の人、いろいろな人がこの世に一緒に住んでいます。すべての行動がうまくいっている人なんていないと思います。人生はそれぞれが自分のためにあるものと思うべきですが、思いやりは人生を通るのに無形であれども必須だと思います。




