第二話・大昔
幸いにして私を産んだ母は平成二十九年現在存命しております。(実父は他界済みです)八十才を超えてもなお、実家で一人暮らしをして私は時々様子を見に行くぐらいです。足腰が弱りシルバーカーを数台使い分けて愛用している人なのですが、老人扱いをするとすごく怒るのでそのあたりは腫れものに触るようにしています。医者が嫌いなので、ちょっと体調を崩した時に受診をすすめても拒否します。母が体調を崩した時、私は初診でも往診していただける主治医を探して三千里……をしたことがあります。デイケアも行ってほしいのですが行きたがりません。八十才超えているのに、私はおばあさんではないといいます。私には子供がいますが、母は私の子ども、つまり孫からもおばあちゃんと呼ばれたくなくて「ばあば」 と呼ばせています。そのぐらい徹底しています。
そういう強気な母ですが先日昔話をしてもう八十年近くもたっているのに学校の先生から「いじめ」 をされた経験を話してくれました。いじめに関しては母は父の義母からも壮絶ないじめもされています。(嫁いびりの話はまた後述します)
母が憎む母をいじめた相手は一応全員トシのため死亡しています。なので相手方の言い分は当然聞いていませんが、事実無根だと私にクレームがつく可能性はゼロなので書いてみますね。
さて母は先生のいじめられっ子でした。私は幼い時から折にふれてその思い出話を聞いていました。母は若い時から同じ話を何度も繰り返す癖があるので、「今日は小学校時代の昔話か」 と思って聞いていたのですが、内容はわかっているので逆インタヴューしてみました。つまり、小さかった母をいじめた先生の名前を聞いたのです。今まで相手の名前を聞いても私にはわからないし、というわけで聞いたことがなかったので。
すると母は、いじめの相手は担任の「▼▼▲▲先生」だったとフルネームで言いました。これ、約八十年前の話ですよ! しかも女性名。私は担任は男の先生だと思い込んでいました。私は手元にあった新聞を放り出して母に向き直りました。
母は話していくうちに当時の▼▼先生の行動や顔つき、服装まで鮮明に思いだしたようで……怒りも蘇ってきて昔話により熱中しだしました。ただし勝者の顔つきです。というのは先生のいじめが露見した時に母の父、つまり私の祖父が怒って校長に直談判してすぐに異動させたからです。大人である担任の先生からいじめられた経験はつらかったが、相応の罰を受けた? ので「ザマミロ」 という感覚なのでしょう。
担任の先生のいじめのきっかけは「給食」 でした。母は給食が嫌いな小学生でした。当時は教職としてすでにベテランの四十代の女性だったらしいのですが、給食を毎日何かしら残す母だったので目をつけられていたのでしょう。特に脱脂粉乳と牛肉、鶏肉がどんなに努力してもダメで無理に食べると吐いてしまう状態でした。先生の職務としては食べ物を残さないようにというのは当然です。母は先生からいじめられたと言っていますが、最初のきっかけは先生の指導としては当然のことです。それが「指導」 から当人が「先生からいじめを受けた」 というきっかけは過度の叱責でした。
当時は戦争が終わったか終わらないかの時で食糧難がありました。それなのに給食があったらしい……ですが、学校生徒全員が農家でお米があったことと、忙しかったということでしょうか。そのあたりはあいまいです。
昔は今のようにアレルギーと言う言葉はありません。この食糧難に食べ物を残すなんてと怒られていましたが、まあ当然でしょう。しかし▼▼先生は一言多かった。他の生徒の前で残した給食をおぼんごと持たされ、「甘やかされている」「頭がおかしい」 などと叱責されていました。給食と関係ない「ちょっといい服を着ていると思ってアホやないか」 という言葉もあったそうです。母が甘やかされた子どもだったと実の娘である私もそう思うのですが、担任の先生は明らかに言いすぎたのです。
毎日会う担任の▼▼先生から嫌われていると思っていた母。不登校とまで行かなかったが当時は学校の先生の権力が今以上にあり、先生に逆らうことは法律違反で逮捕されるような感覚を持っていたらしいです。
通常であればクラスメートと楽しく食べる給食の時間が恐怖だった……とうとうある日、いつものように先生から責められた母は声を出して泣きました。つくえの上の給食もバッグも教科書もすべておいてハダシのまま(なぜか教室内はハダシだったらしい)くつもはかず、ハダシで土の道を走り(当時はアスファルトではない)家に逃げ帰りました。
先生は追いかけなかったそうです。午後から授業もあるし戻ってくるのだろうと思っていたのではないでしょうか。母の育った家とその小学校の距離は子どもの足で走って十分ぐらいでしょうか。
家の隣には母の両親つまり私の祖父母が畑仕事をしていたそうです。その日の天気は覚えてなかったのですが泥だらけで、すぐにお風呂場に連れて行かれたといいます。
母は担任の▼▼先生から毎日のように「食べ物を残す子どもは頭がおかしい」 発言を初めて祖父に訴えました。怒った祖父は学校に走って行きました。祖父は戦争から帰ってきたばかりのはずです。愛娘の訴えに「みんなの前でうちの娘に対して頭がおかしいというなんて!」 というわけで校長先生に面会しました。みんなの前で給食の残した盆を持たされて立たされ、かつ「アホ」 と言われたのが、怒りポイントだった。当時の祖父は地元の消防団長をしていて当時では名誉職? だったらしいです。(戦争で赤紙招集されたものの、ケガをして終戦前に帰国した人です)
私は母から生まれているので母の経歴を知っています。母は祖父の長女で◎◎さんの長女といわれてちやほやされていた時期もあり、先生がそれをおもしろく思っていなかったのではないかと思いました。しかし母が人前で泣き顔を見せたのは初めてで、それも祖父の怒りを買ったようです。
校長は平謝りでその先生は地元の人ではなくあっさりとその場で異動になったようです。昔の話ならではのことで、今ならば一生徒の親が先生をその場で異動させるということは考えられません。
結局当の▼▼先生とは以後一度も会うことなく、祖父からは「遠くへ行ったから二度と会うまい」 と言われて安心して学校へ通うことになったのです。
事の是非はともかく、私が言いたいのは当人が納得いかない「いじめだと感じたら一生涯それを鮮烈に思いだせる」 ということです。約八十年たってるのに先生の罵倒の言葉、顔つき、その時の服装まで言えているのですよ。お嬢ちゃんといわれていた母がハダシで、と驚いたのですがずっと我慢していたのよっ、と今なお怒る母……。
この事例は言い返せない状況でプライドを壊された、と感じたら「言われた相手は死ぬまで忘れない」 という実証になるかと思っています。
(給食の食べ残しは、アレルギーがない限り、ちゃんと食べるようにと注意を受けるのは当然だと思ってます。念のために追記します)
◎◎◎ 第二話のまとめ ⇒ 言われた本人にとって衝撃を受けた言葉は一生涯忘れない ◎◎◎