第百話・イラクサのブーケ
イラクサのブーケもこれでラストです。
これだけ人の悪意をテーマによくもかけたものだと思います。読者様には感謝します。
私も己の心にある種々の悪意をさらしてしまいましたが、後悔するよりも過去誰にも言えなかった話を書いちゃった ⇒ ⇒ ⇒ 重荷をおろした気分です。
私は小説も書きますので、作成するにあたって、このシリーズを書くことで妙なバイアスがかからず、利点の方が大きいのに気づきました。私だけかもしれませんが、邪魔な荷物をおろして、空っぽに見える部分から話を作り出すことに喜びを感じるのです。
ある編集者さんのエッセイで、作家がすべてを吐き出した後、空っぽになった状態から出てくる物語にはいいものがある……と読んだことがあります。私は作家で食べていける身分ではないので、当てはまりませんがそれでも心の断捨離をすませたことで、物語が作り出しやすくはなったと思うのです。だからといって受賞確率が上がることにはならぬでしょうが、作り出す楽しみがより増したということになるのかな。誰も読んでもらえなくても今までも嬉々として書いていましたしね。
しかし、本当はこの手の悪意がテーマのエッセイはまだまだ書ける、と断言できることにも愕然とします。私は悪意の塊で味付けされている人生なのでしょうか……否! それは絶対に否!
どうせなら、善意で満ちた楽しい人生を歩みたい。でも実際の私は他人の悪意に振り回されてばかり。私は人さまに見下されやすいもしくはバカにされる要素があるのか……私は善人ではないので、時には恨みでいっぱいになる。それは己の人生を暗い方向にもっていく。へたすれば人への憎しみで貴重な自由時間の一部が台無しになったりもする。時には私の存在自体が人の悪意、醜い部分を引き出してしまう運命か、など中二病的魔王のストーリーを考え付いてしまう。こんなの名作じゃない。駄作以前でしょう。
でもこれだけはいえる。人に振り回されてばかり、被害者意識で満ちた心だとせっかく生まれてきた自分がかわいそう。自分を大事にしたいと思えば、周囲の環境を変えるか、自分の思考法を変えるかのどちらかしかない。それをすることにより、大事な自分の心の一部を殺してしまうしかない。でも自分の心を殺したら悪人の思うがまま。人生はジレンマの連続です。
最後の回り道話。
どんな人に対しても、好嫌の感情は通じる。そうそう、好きも嫌いの漢字をよく見たら……両方とも女が横についている。
「好き」 には、女編に、子供の「子」 。
「嫌い」 には、女編に、「兼ねる」 。
「憎い」 には 立心編 「忄」 に「曽」 の字です。曽は意味が深く、曽祖父、未曾有、などと使いますが、「かつて、元から」 の意味合いもある。ならば心の奥底の感情を表すことになるのかも。
私はこういった感情を示す漢字をしみじみ眺める都度、成立の過程と隠された意味に含蓄を感じます。女編に関しては、すぐ「女性蔑視」 という人がいますが、男女関係ないし、喜怒哀楽の感情のほとばしりには個人差が凄くある、と思います。喜怒哀楽を出さないから「いい人」 というのは、作られた幻想ですよ。「いい人」 は他人にとっての「都合のいい人」 であるとは昔からよくいったものです。いやもうこの辺でやめておきましょう。
ともあれ、今まで読んでいただき感謝いたします。心から。




