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リバイブマン  作者: 鈴田航之
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血の池

 つんと、なにか鉄臭い匂いが、リアンの鼻腔に滑り込んできた。

 鼻の頭に鈍い痛みが走る。リアンはがばりと顔を上げた。足元の石畳なんぞ捨て置けと、そう思う暇もなかった。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、闇すら孕んでいる不気味な暗褐色の液体だった。まるでここが自分のあるべき場所だと言わんばかりに、その吐き気を催す姿態を晒している。貯水部分一面に、文字通り血の池ができていた。場違いにもなるほどなと、リアンは冷えた思考の中で呟いていた。

「警察はまだ来ないな」

「いつからこんなことになってたの?」

「そこの角の薬屋の主人が今朝からいないらしい」

「誰かなんとかしなさいよ、臭くてかなわないわ」

「これは迷宮入りかなぁ」

「どうせ警察にはなにも出来んだろう」

 1人では小さな囁き声でも、多く集まればそれは大きな渦となり、街をすっぽりと覆ってしまう。さらに、この街の住民たちは皆自分本位だ。「誰かが殺された、もしくは傷つけられてしまったのではないか」なんて心配をする者は誰もいない。自分の身を自分で守ることで精一杯だからだ。

 人々が自分中心の思考に至ったのは、なにも個人の問題ではない。むしろ、ずっと昔に起きてしまった大天災から、すべては始まったのだと言える。

 口々に見解を述べ合う人々を置いて、リアンはただただジッと、寒気がするほど静かで穏やかな、血の池を眺めていた。水面は毛ほども動く気配がない。水面の下には何もないのだろうか。誰か、手を突っ込んで確かめたりはしたんだろうか。……いや、ないな。面倒ごとに自分から首を突っ込む人間なんて、この街にはいない。皆、極力静かに暮らしたがっているのだから。

 おもむろに、リアンは抱えていた茶色の紙袋から、痩せて衰えたいかにも失敗しましたと言わんばかりのキャベツを取り出した。しかしやはり誰も気づかない。

 そして手早くキャベツを覆っていたビニール袋を取り、裸のキャベツだけを紙袋に戻す。リアンの顔は無表情だ。

 リアンはビニール袋を触り、穴がないかを確認する。ないな、ヨシ。リアンは、噴水の貯水部分を囲う低い石塀の前にしゃがみ、太ももと腹の間の空いたスペースに紙袋を入れた。いつのまにか彼女の左手には、先ほどキャベツから剥がした───ビニール袋が、装着されている。

 次の瞬間、ビニール袋に覆われたリアンの左手は、暗褐色の水面に吸い込まれていた。

 うっ。

 誰かのうめき声が聞こえた。噴水を囲んでいた囁き声は、痛いほどの沈黙によって押さえつけられている。辺り一帯が鎮まり返り、人々が息を潜め、グッと口を閉じて、リアンの一挙一動を伺っている気配がした。

 無表情に、リアンは水面を覗き込んでいた。暗い赤色に、うっすらと自分の顔が映っている。なかなか気持ち悪い光景だ。

 水面に映り込んだ自分自身の顔を斜めに切り込むように、すい、とリアンは左手をスライドさせる。水面に波紋が広がって、映っている顔が急激に歪んで揺れる。ごぽっと間抜けな音がした。

 背後からじり、と音がして、リアンは目だけを振り返らせた。そこには、先ほどまで好奇心にまみれた瞳で池を覗き込んでいた人々の姿はなかった。皆が皆かわいそうなほど顔を青くして、ゆっくりと後ろに後退している。

 リアンは池に目を落とした。左手はぐるぐると池の中をかき回すように動かしたまま。

 誰からは分からない。噴水を囲っていた人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。四方から慌ただしい足音が響く。リアンはぼんやりと足音と悲鳴の合唱を背後に聞きながら、なおも執拗に水面下の探索を続ける。

 警察は当分来ないだろう。彼らは当然人間で、限界もある。他の案件に捕まっているかもしれないし、山積みの始末書に埋もれて困っているかもしれない。

 そうでなくても、リアンはこの作業を続けざるをえなかった。リアンは自分の第六感が「危険だ」と警告信号を示していると、はっきり感じていた。今、自分が何をすべきなのか?

 リアンの頭には、その問いに答えるべきであるという確信めいた直感が走っていた。

 足音と悲鳴が遠ざかり、やがて広場に沈黙が訪れた。今度こそ、本当の静寂が。リアンは無意識のうちに息を止めていた。

 しゃがんだ姿勢のまま、無人になった噴水の低い石塀に沿って、ゆっくりと移動する。相も変わらず不揃いで不細工な凹凸の激しい石塀に左肘をつきながら、リアンの瞳はせわしなく水面の上を走る。油断はない。

 未だに水中にはなにもない。子供の下半身くらいの深さの貯水スペースで、何も手に当たらない。やっぱり、私の思い違いだろうか。

 リアンは首を捻りながらも、その奇怪な作業を続ける。しゃがんでいた体勢から、右ひざを地面につけ、左ひざをたてて楽な体勢に変える。

 ふと、リアンは池に突っ込んでいた左手を持ち上げてみた。

 指先を下にして、こぽりと音を立てながら池から手を抜く。当然ながら、ビニール袋にはべっとりと赤い液体が付着していた。

 じっくと観察してみる。ぽと、ぽと、と水滴が滴り落ちている。なんとなく、普通の水より粘着質な印象を受ける。

 おそらく、いや、確実にこれは血液だ。動物のものか、人間のものかは判断しかねるが……。

 リアンは足元に紙袋を下ろし、中腰になって上半身を池の上に乗り出した。人が見てようが見ていなかろうが、彼女は躊躇わない。

 そしてリアンは、黒いブーツを纏った右足を、赤い池に突っ込んだ。

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