プロローグ
中央広場にある枯れた噴水の周りに、人の群れができていた。いつもは示し合わせたかのようにみんな自分の家に篭り、珍しく人が歩いていると思えば顔を俯かせたり逸らしたりするくせに、珍しいこともあるもんだなぁと、リアン=フリードリヒは首を捻った。
サントル川のすぐそばに位置するこの中央広場は、一応この廃れた街の憩いの場となっている。しかし住民たちは滅多に自宅から出ないし、出たとしてもわざわざ余計に歩いてこの広場に来ることはない。憩われてないないのだ。
なぜかというと、この街の治安やら衛生面やらがこの地球上で一番悪いからである。今や治安の良い国なんて無いんじゃないかと思えるこの世界の中でも、この街の犯罪・事故の多発率は群を抜いている。夜に1人で出歩こうものなら、誰からも気付かれることなく、いとも簡単に路地裏へ引きずり込まれるだろう。悲鳴を上げたとしても、住民たちは自分の身を守ることで精一杯なのだ。誰も助けには来ない。
警察も深刻な人手不足により満足に街の取り締まりができていないし、調子づいた犯罪者たちはギャンブルに賭博、ドラッグに売春など、所構わず法を犯し放題だ。地下の方なんて目も当てられないだろう。
歩道の整備もさほど進んでおらず、比較的歩きやすいと思われる大通りですら、常に足元を見ていなければ穴やら石やらに足をつまずかせて転ぶくらいである。まして年寄りや小さな子供、なんらかの障害を持つ人が歩こうものなら怪我を負うこと間違いなしだ。
そんなこんなで誰ともなく名付けられ、最近この街は「サスピション」と呼ばれるようになった。通称“黒い霧の街”。疑いと犯罪が蔓延る街。
しかしそんな街にも、はるか昔には「花の都」と呼ばれるような繁栄の時代があったそうだ。今や炭素でできた宝石よりも価値があると言われる歴史書の中に、そういう記述があったと聞く。
そう、この街の本当の名前は、パリ。大災厄により廃れて、大陸の多くは黒々とした海へと沈み、ボロ切れみたいになったこの世界の中では、比較的先進した国──フランスの、首都である。
00:プロローグ
好奇心の赴くままに、リアンは足を進める。群れに近づくにつれて、卑屈な翳りの落ちた人々の目元に、見慣れぬ色が浮かんでいるのを見とめた。
光。いつもは暗く落ちくぼんだ瞳の中に、恐怖と、好奇の光が滲んでいたのだ。
なんだろう。
何かしらの事件が起こったのだ、ということは分かった。隣人の安否なぞ普段は気にも留めない住民たちが、こぞって覗き込みたくなるような事件が。
抱えた茶色の紙袋を、リアンはグッと抱え直す。
「どうかしたんですか」
リアンが、こちらに背を向けて何かを覗き込まんとしている中年の男に声をかけた。男は、着ているねずみ色のジャンパーのポケットに片手を突っ込みながら、こちらにちらと視線を投げる。
50がらみの、頬のこけた男だ。なんだかわからない、生ゴミのような……とにかくよく分からないが嫌な匂いと、それに混じってかすかなタバコの匂いがした。リアンは躊躇わずに、屈託のない瞳を瞬かせて、再度聞いた。
「なにかあったんですか」
質問というより確認だった。無精髭に覆われた、男の薄い口が開く。
「19区の変人探偵か」
男はリアンの問いかけに答えずに、自分の言いたいことをそのまま吐き出した。灰色の虹彩に光はない。
「えぇ、よくご存知で」
リアンは頬に笑みを浮かべる。「『アトランティス』は随時営業中ですよ。 なにかお困りであれば……」
「分かった分かった。 気が向いたらな」
男の声は低く、楽しそうには聞こえなかったが、その口角はかすかにつり上がっている。
「『なにか』は、あったぜ。 見りゃ分かるだろうが……」ようやく、質問の答えが聞けそうだ。リアンは笑みを崩さずに、じっと男の話に耳を傾ける。
「噴水には貯水部分があるだろ?」
「はい」
「それが、血の池になっちまってるんだと」
「え」思わずリアンが聞き返した。「血の池?」
男の黄ばんだ歯が覗く。どうやら笑っているらしい。
「そう。血の池」男の目が、わざとらしく噴水の方に滑って、またこちらに戻ってくる。「もうね、真っ赤っか」
リアンは眉尻を下げ、その寝ぼけたような二重の瞳を人垣の方に向けた。血の池?誰かが殺されたのか?
「死体があったんですか?」
リアンは至極素直に、自分の考えていたことを口にする。大量の血、それが貯水部分に溜まっている……。リアンの脳裏には、うつ伏せの人間が血の池に浮かぶイメージがこびりついていた。
「さぁなぁ。 自分の目で見て考えな」
男の瞳の中に、ちらりとかすかな光が浮かんだ。何かおかしなことでもあるかのように、男がニヤニヤと笑う。リアンは首をひねりながらも、素直に「ありがとう」とだけ言って、覗けるところを探しに行った。
半径約2メートルほどの噴水を囲む人たち。リアンはそのちんくしゃな体躯を利用して人と人の隙間にスルリと潜りこんだ。割り込み行為にも関わらず、何かを見ることに躍起になっている人たちは、それに気付きもしない。
それらを見越したのかそうでないのか、リアンの体はすんなりと先頭に流れ出た。先ほどは人垣に覆われ、その見すぼらしい様を隠していた噴水。リアンの眼前に、その姿が現われようとしていた。