第十四章 第三話
「あ、先輩。お疲れ様でした」
此方も外来でワクチンと戦ってきたアンガスが流石に少し疲れた表情で、それでも笑顔でジャスティンを出迎えた。
「ああ。お疲れ」
大テーブルの椅子にどっかと腰を下ろしたジャスティンは、このまま机に突っ伏してガーガーと寝込んでしまいたい心境であったが、向かい側に座るアンガスの目の前には何時ものノートPCが広げてあって、今も熱心に医学書を片手に勉強に余念が無かったらしく、自分も卒験が間近い事を思い出したジャスティンは、諦めの境地でため息をついた。
「こんな状態で本当に卒験やるつもりなんかな」
「うーん。でも一応僕らは日勤だけで夜勤は外して貰ってますし」
確かに日中はこき使われてはいるが、その分夜に勉強しろという医局長ヒックスの優しさなのか厳しさなのか、しかしそれにちゃんと応えているアンガスの勤勉さに脱帽してジャスティンも重い腰を上げて自分の目の前に医学書を積み上げた。
「明日、一人退院だよな?」
「ええ。肝芽腫でしたけど早期だったんで」
着々と自分の担当患者を治していくアンガスは、卒業後は本当にアバディーンに行くつもりらしく、これ以上は担当は増やさないで欲しいとヒックスに依頼していて、真っ直ぐに前を見据えて歩いて行くアンガスが眩しく思えてジャスティンは悔しさの滲んだ視線を宙に泳がせた。
何れは聖システィーナ地区に小児専門医院を開くとしても資金の無い今ではまだ夢の話で、当面の間自分は何処で何をするべきなのか、ジャスティンはまだ決めかねていたからだった。
とは言え、選択肢はそれ程残されていない筈であった。このまま病院に残って研鑽を積んで同時に資金も蓄えるか、聖システィーナ地区で臨時診療所を開設しているミレット尼僧の元で働いて、開業資金を溜めるかの二つしか道は残されておらず、どちらの道を選ぶべきなのかジャスティンはまだこの時期になっても悩んでいた。
「当面の間は病院に残って、時期が来れば聖システィーナへ行ってもいいんじゃないんですかね」
画面から目を離さずアンガスが淡々と言ったが、ジャスティンは渋い顔のままペンでポリポリと頭を掻いた。
「しかしなぁ」
そのどちらを選んだとしてもがむしゃらさが足りないような気がジャスティンにはしていた。
流れに任せて此処まで突っ走ってきたジャスティンであったが、一見勇猛果敢に急流を泳いでいるようでも、実際には流れに飲まれてただ流されているだけなんじゃないか、その事が自分の行く末を己で見極められない原因なんじゃないかと、一応は広げた医学書の文字を目で追いながらジャスティンは物憂げにため息をついた。
もう迷わずに自分の道を進んでいるアンガスの自信に満ちた顔をチラッと覗き見て、ジャスティンはふと思い出した。
「アンガスさ、確かプリマスのモーリスタウンが実家なんだよな」
「ええ。叔母が、と言っても、本当は実母なんですけど一人でまだ住んでますよ」
「へ?」
その情報は知らなかったジャスティンは、頬杖をついていた手を滑らせて前のめりになった。
アンガスの叔母、実際にはアンガスを産んだ実母は夫を亡くして一人で軍所有の農作地で賄い婦をして暮らしているのだと言う。
「僕先月行って来たんですけど、まだ元気だし、軍の方々も皆さん良くして下さるそうで、心配いらないって言ってましたから」
アンガスがアバディーンへ行ってしまう事に家族が反対しているのでは無いかと案じたジャスティンの心中を読んだのか、アンガスは穏やかな笑みを浮かべて微笑んでいた。
「それならいいんだけど」
家族への根回しも済み、知識は十分で卒験も楽々とこなせそうなアンガスの凛々しい顔を横目で見て、まだ迷いを抱えている自分の方が迷子の仔犬みたいだと、ジャスティンは分厚い医学書で嘆息を隠して俯いた。
悩める者にも朝は無情にも淡々と訪れて、連日の予防接種に追われるジャスティンであったが水曜日の今日は予防接種はお休みで、午前中外来を担当したジャスティンは昼飯を怒涛の勢いで掻き込み、午後外来の始まる三時まで勉強をするか、それとも夜に備えて昼寝を決め込むかと漠然と考えながら一階フロアを歩いていたが、前方から近づいて来る車椅子に気付いてふと顔を上げた。
「あら、ジャスティン。お久しぶりね」
嫣然と笑みを浮かべているソフィー・フェアフィールドの元気そうな顔を見て、ジャスティンは「ああ」と笑顔になった。
時折リハビリの為に病院に通っているというソフィーと遭遇したのは、彼女が退院してから初めての事だった。
「今日は、エドガーは一緒じゃないのか?」
「彼ならフランスよ。国際コミュニティ会議が開催されているのを知っているでしょ?」
「ああ。そっか」
自分はまだ移動には車椅子が必要なため、今回は同行しなかったのだとソフィーは明るく笑った。
ソフィーの車椅子を押しながら、ジャスティンは今日この才媛と久しぶりに出会えたのも、きっと何かの思し召しだろうとリハビリ室へと向かいながらじっと考えていた。
約小一時間のリハビリを終えたソフィーを夏の日差しが降り注ぐ屋上へと誘ったジャスティンは、塔屋の影の涼しい風が渡る場所で車椅子を止め、風に気持ち良さそうに吹かれているソフィーを振り返った。
「今ってさ、急流が急に堰き止められた澱みみたいな感じなんかな」
唐突に話し掛けられても面食らう事もせず、ソフィーは静かに顔を上げてジャスティンを見返した。
「何か、其処から先、どっちへ行けばいいのかなって」
抱える複雑な感情をどう表現していいのか分からず、取りとめも無い説明の仕方にジャスティン自身、自分で呆れたが、ソフィーは暫く考えた後「そうね」とゆっくり口を開いた。
「確かに、これ迄の世界は急峻な沢を流れ下る急流の様なもので、今は滔滔と平野を流れる大河に変わったとも言えるわ」
ソフィーは千切れた雲の流れる空を見上げてフッと笑った。
「けれど急峻であっても大河であっても行き着く先は変わらないわ。その先にあるのは綿々と水を湛えた大海原よ」
「それって、今までの道をこのまま行けばいいって事?」
ジャスティンが戸惑いを口にするとソフィーは穏やかな蒼の瞳をジャスティンへ向けた。
「どの道を行ってもいいのよ、ジャスティン。その道は必ずあの蒼の海へと繋がっているから。道は無数にあるようにも見えるけれど、実際には一つしか無いの。自分が歩いた道、それが道よ」
その時ザワッと音を立てて吹き過ぎたつむじ風に銀髪を靡かせて、ジャスティンは自分の背後を振り返った。
確かに自分が何処をどう歩いたとしても、自分の道の先にあるのはただ一つだけの真実で、ビアンカの笑顔だけであった。今は一見穏やかな世界では不安も疑念も暗く深い口を開けて待ち構えている闇も存在しないように思えたが、何時かまた世界が光を必要とした時に、ビアンカが聖なる守護の光を天空に向けて放つ日が来るのだろうとジャスティンには思えた。
だからこそ俺は今此処に居るんだ、そう思えたジャスティンは、今はまだ自身で青い光を放つ天を見上げて静かに微笑んだ。
「……花の香りね」
目を閉じて涼風を吸い込んだソフィーが嬉しそうに呟いて、そう言われてみれば何処と無く花の香りがするような気がして、南国の花の香りとは異なる、優しい春の花の香をジャスティンも胸一杯に吸い込んだ。




